トルコ, フィールドワーク四方山話

普段通りにしようとするな

コロナウイルスによって、自分がいったいどういった空間で生きているのかと思うことが増えました。文献と現地調査によって研究をしている私にとって、トルコなどで現地調査がままならないことは、非常にストレスを抱える状態となっています。

研究者といわれる人たちは、何をどうやって研究をしているのかということに、興味を持つ方がいらっしゃるかもしれません。私の場合ですが、地域研究をベースに、社会のなかでの宗教の役割について考察しています。特に世界宗教であるイスラムが単に「宗教」の枠組みにとらわれず、社会のなかでどのように運用され役割を果たしているのかについて観察しています。

例えば、ムスリム(イスラム教徒)同士がイスラムの教義のなかでどうやって助け合いどのような社会を形成しているのか、なぜイスラムに回帰する人がいるのか、なぜ信仰の自由を求めて亡命する人がいるのか、などを研究テーマとしています。どんな時代、ご時世においても相互扶助の社会を形成することは、必要不可欠であると考えています。また、「自己責任」の世の中ではない相互扶助の世の中を次世代に継承してゆきたいと考えています。相互扶助のモデルのひとつとして、ムスリム社会の相互扶助を観察しています。

その観察の方法とは、文献を読むことと、現地調査を主としています。文献や現地調査(トルコ)で得た情報をもとに検討して、論文や学会などでの報告といった形にし、社会に発信していきます。現地調査はどうやって行うのか、と興味を持たれる方がいらっしゃるかもしれません。現地調査では、時間の許す限りより多くの人と接して生の声を聴くということに徹します。たわいもない会話から情勢を把握するということです。人と人との会話の間(ま)、表情、会話の中での婉曲な表現が意味するものといったことを読み取ることも調査のひとつです。人と人との交流なくして、研究が成り立ちません。とてもアナログな研究スタイルです。

アジアとヨーロッパが交差するトルコ・イスタンブール。フェリーでアジア側とヨーロッパ側を行き来します。フェリーのなかでは、チャイ、コーヒー、ホットサンドなどが販売されています。ちょっとした旅行気分です。フェリーからヨーロッパ側を望んだ風景です。 

トルコ渡航のはずが・・

そのトルコでの現地調査ですが、今年の3月に予定していました。これからトルコに渡航するぞと意気揚々と空港のチェックインカウンターに行った時、空港職員より初めてトルコに渡航できなくなったとの知らせを受けました。トルコがコロナウイルスの関係で外国からの飛行機を受け入れ拒否となったため、トルコへの渡航ができなくなったのです。トルコの友人へのお土産をいっぱい詰め込んだスーツケースは、トルコへの渡航が不可能になったという喪失感からより重く感じられました。近い存在だった私のトルコの友人が急に果てしなく遠い存在になってしまったようにも感じられました。家族には、「えらい短い出張やったね」と言われる始末。

自宅という限られた空間の中で、SNS、カメラを通じてトルコの友人と交流をしてみたものの、どうもうまくいきません。相手から伝わる雰囲気がなかなか読み取れないためです。そのような状況の中、日本の状況も刻々と今まで経験したことのない閉塞感に包まれていきます。学校の教務も把握しきれないリモート授業へと移行し、その対応に追われます。「なんとか日常を維持しなければならない」「しっかりしなければいけない。平常心を保って」という気持ちの中、ある日トルコの友人に電話をして今の状況を話しました。

 この友人とは、10年来家族ぐるみのつきあいです。私がイスタンブールに滞在していた時に、セマー(メヴィラーナ、旋舞)といわれ、長いスカートをはいてクルクルとまわって瞑想し、陶酔状態になりアッラーの教えとを一体化することを目的とする修練場で出会った仲間です。コロナウイルスによって何もかもが絶望的になったと話し、前向きにとらえられないことを悲観し泣いてしまいました。日本時間朝4時、トルコ時間夜10時でした。これからの研究のこと、コロナウイルスにかかるのも「自己責任」か、など行く末を考え込みすぎて寝られなかったのです。魔の刻に捉われてしまいました。いけません。

ありったけの気持ち

冷静を取り戻した翌日、私は、興奮しすぎてしまったことを恥ずかしく思いトルコの友人に「昨日はごめんね。パニックになって泣いてしまって」とメッセージを送りました。

すると、すぐに友人から電話がかかってきました。ひとこと、「こんな状況なのだから、日常通りにしようとしなくていいよ、たよってきてくれてうれしかった。」と。

そして、なぜかいきなり友人の家族が登場。

友人のお母さん「まさこーーー!あんたは、外国人なのにトルコ語が話せるでしょーー!!」

「いきなり、何やねん?トルコにいたら何とか話せるようになるよ」

友人のお父さん「まさこーー!おまえさんは、一人で飛行機に乗って世界に行けるだろうーー!!」

「・・・誰だってできるよ。わたしだけやないよ」

友人のお兄さん「まさこーー!!おまえは、一人で外国に住める勇気を持ってるじゃないかーー!!」

「お兄さんまで、何やねん」

またお母さんが登場「まさこーー!私の料理が大好きなかわいい娘」

「お母さんの料理をたかりすぎたかな」

お父さんも再登場「まさこーー!日本にいる私のかわいい娘」

「今ダメな娘やね・・」

お兄さんも再登場というように一家総出で入れ替わり立ち代わり、子どもをなだめるかのように、美辞麗句を口々に言って私を褒めちぎります。なんとか私に元気を出させようと。「よう、それだけ、あることないこと思いつくな」と、聞いているうちに一家総出での激励に爆笑してしまいました。

心のビタミン

こうしたことを経験して、トルコ人はなぜこんなに自信を持っているのか(自信過剰に近い)ということを実体験したような気分でした。褒められた時の私とトルコ人の反応の違いに気づかされました。例えば、トルコ人に「今日の服似合っているね。」と言うと、トルコ人からは「でしょ?この服かわいいよね」とかえってきます。「お母さんの料理おいしいですね。」というと、お母さんからは「当り前よ!私が作ったのだから」とかえってきます。私は、友人や友人の家族から褒められたことを素直に受け取っていませんでした。「自己責任」の世の中をなくしたいと言っていた私こそが、自分に「自己責任」を押し付けていました。

相手のどんな些細ないいところを見つけて、それを相手に言う。そして、言われた側は、その褒め言葉を素直に喜ぶ。これって、現代社会に必要な特効薬なのかもしれません。どんな情況においても。「自助努力」だけでは、生きてゆけません。心のビタミンが必要なのです。なぜならば、あなたは私にとって大切な人なのだから。私もあなたにとって必要な人になりたいから。

夜の帳が下りる頃。夕暮れの海を眺めながら、ゆっくりと時が過ぎてゆきます。チャイの杯を重ねながら、友人とのおしゃべりもまだまだ続きます。

(文:中屋 昌子)

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