フィールドワーク四方山話, ミャンマー

ヤンゴンの子供たち

ネピドー出身の出稼ぎ少女グーグー

グーグーと出会ったのはヤンゴン随一の繁華街フレーダンだった。グーグーは不思議な少女だった。いつもパジャマのような恰好で通りを歩いていた。背は低く、10歳ぐらいだろうと思っていたのだが、あるとき15、6歳だと聞いて驚いた。同じような年齢の子供は白シャツに緑の巻きスカートという学生服姿を見かけるが、グーグーがそのような恰好をしているのは見たことがない。記憶を辿って、そういえば私は彼女のスカート姿さえも見たことがないことに気付く。

グーグーはヤンゴンの生まれではなかった。グーグーのふるさとはネピドーだった。ネピドーは今でこそ首都ではあるが、「ネピドー出身」と聞けば、ほとんどの人が「田舎者」を連想するような、何もない地方都市である。グーグーの両親や家族は今もみなネピドーに住んでいる。グーグーだけが一人ヤンゴン、しかもヤンゴン在住日本人が「ヤンゴンの原宿」と呼ぶような、にぎやかな街フレーダンに出てきていた。

グーグーはフレーダンで家事手伝いとして働いていた。フレーダンにはグーグーの遠縁の親戚が住んでいて、そこで彼女は住み込みで働いた。来る日も来る日もグーグーは親戚一家の「奥様」に言われたことをこなした。食材の買い出しや近所に住む孫たちの学校の送り迎えなど。それがグーグーの日常だった。親類一家の「奥様」はネピドーに住むグーグーの両親に、毎月グーグーの賃金を送金していた。

ある日私は、ヤンゴンの宿で知り合った若い日本人男性タローを連れてグーグーが世話になっている一家を訪ねた。タローは初ミャンマーで、観光地じゃなくて、ミャンマー人の普通の家に行きたいということで、連れてきた。イケメンで好青年のタローに、グーグーはひと目で恋をしたようだった。食べ物は何が好きか?ヤンゴンは好きか?とタローを質問攻めにした。ほんの10分程度の滞在だった。

それ以来、何年経とうとも、グーグーは私を見かけると、タローは色が白かったよね?カッコよかったよね?タローとは連絡とってるの?タローは元気なの?と聞いてくる。残念ながら、タローとは宿でたまたま知り合って、その日数時間だけ行動をともにしただけで、それ以来とくに連絡もとっていない。「どこかで元気にしているはずだよ」と答えると、グーグーはニコッとした。

グーグーの暮らすフレーダン

ネピドー出身の出稼ぎ青年マウンマウン

マウンマウンと出会ったのは、ヤンゴンのダウンタウンにある、私が定宿にしているゲストハウスだった。この宿で働く若いミャンマー人の少年の多くは、地方出身者だった。とりわけバガン、ネピドーの出身者が多かった。マウンマウンも背が低く、幼く見えた。高校生ぐらいかと思ったが、彼もすでに二十を超えていた。少年と言っては失礼かもしれない。マウンマウンは同じ宿で働くヤンゴン出身のミョーという少年ととくに仲が良く、よく二人で行動していた。

私はそのころ経費削減のため、そのゲストハウスの中でも最低料金で泊まれる、バス・トイレ共同のシェアルームに泊まっていた。これがちょうど屋上にあり、シェアルームの隣の部屋はスタッフの男の子たちが雑魚寝する部屋になっていた。屋上なのでベランダみたいな空間があって、マウンマウンとミョーはしばしば「一杯どう?」と、部屋で休む私を呼び出した。彼らはいつもなけなしの給料から、酒とつまみを用意してくれた。

夜空の下、ラペットウッ(発酵させた茶葉と煎った豆を和えたお茶請け)をつまみにウイスキーをちびちびやりながら、マウンマウンとミョーと私は、仕事の話や将来の夢などいろんなことを語り合った。いや、実際は彼らの仕事に対する愚痴が多かったか。仕事はとにかくキツイ、ベッドメイキングから掃除から、朝から晩まで働きづめだ、ちょっとでもミスしたらボスは給料から天引きするから嫌だ、全然故郷に帰らせてくれないなどなど。

実際、故郷への電話でえも滅多に許されなかった。故郷が恋しくなって辞められては困るからだろうか。ヤンゴンに出てきたからには覚悟を決めて働け、ということでもある。ある日、バガン出身のスタッフの少年が大粒の涙をボロボロとこぼしながら、雑魚寝部屋に戻ってきた。久しぶりに電話が許されたらしく、電話口から聞こえてくる懐かしい母の声を耳にして、抑えていたものが溢れだしたのだった。

マウンマウンにはヤンゴンに出てきて稼ぎたい理由があった。ひとつは故郷の妹の学費である。父親はタイに出稼ぎに行ったくせに、戻ってきたら持ち金ゼロだったらしい。詳しいことはわからないが、うまい話に乗せられて、働かされるだけ働かされて、あとはポイだったのかもしれない。だから長男のマウンマウンがこの年齢で大黒柱として働きに出ることになった。

妹を無事に学校に通わせることができたら、次は自分の夢である。彼はを目を輝かせて将来の計画を語った。それは、この宿で働きながら目標金額までお金を貯めて、ネピドーに戻って商売をするという夢だ。「なんの商売だってできる、米でも油でも、ゴマでもなんでも、好きなものを売るんだ。」

数年後、宿にマウンマウンの姿はなかった。彼と仲良しだったミョーから、彼がすでにこの世にいないことを聞かされた。理由は教えてくれなかった。

ヤンゴンのダウンタウンではとくに夕方以降、人通りが激しくなる。
ネピドーやバガン出身者の中にはヤンゴンは住みづらいとこぼす者も。

ヤンゴン生まれのサンダー

サンダーにはじめて出会ったのは彼女がまだ12歳くらいのころだ。友人の姪っ子だった。サンダーの父はかつて九州に出稼ぎに出ており、帰国後はそのとき得たお金を元手に自分でビジネスをしている。ハイエースのような立派なワゴン車を購入し、大事そうに手入れをする姿をよく見かける。

母(友人の姉)は生粋のヤンゴン娘。気の強さはピカイチだ。サンダーの下には弟がおり、両親は彼ら二人を目に入れても痛くないというくらい、とても大事にしていた。ビジネスもうまくいっているようで、フレーダンにアパートを購入し、子供たちは何不自由なく、ほしいものはほぼなんでも与えられた。

サンダーはジャンクフードが大好きだった。彼女はよく変な時間におなかが空いたと言っては、タイの袋麺yumyumを、お手伝いの女の子に作ってもらっていた。日本の袋麺よりは量が少なく、小腹が減ったときにはもってこいの一品である(私も大好物で、病みつきになってしまった)。ミャンマー料理が嫌いな彼女はいつも袋麺かパンを食べていた。

お手伝いの女の子というのが、最初に紹介したグーグーだ。彼女はサンダーの身の回りのあれこれを世話していた。学校への送り迎えや、使い走りやら。グーグーの「奥様」がサンダーにとっての祖母にあたり、歩いて10秒もかからないところに住んでいる。そのためグーグーはサンダー一家の家事手伝いでもあった。

出会ってしばらく経ったころ、そろそろ10年生というころだったろうか。ミャンマーでは10年生試験(日本の高校三年生に相当)が一生を左右するほど重要だとされていて、その点数で大学も決まる。それを見据えて勉強が不得意のサンダーには家庭教師がつけられた。彼女自身は絵を描くのが得意で、将来の夢はファッションデザイナーだと語っていたけれど。やはり大学ぐらい出ておいたほうがよいということだろうか。どこの親も変わらないものである(結局通信大学に無事に合格したようだ)。

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感想(14件)

yumyumは私も日常的に食べていた。とくにトムヤムシュリンプ味は、
本場タイのメーカーだけあって本格的な味わい。現地ではさらに安い。

ヤンゴンの子供たち

ヤンゴンではいろんな子供たちを見てきた。土足禁止のパゴダ入口で、脱いだサンダルを入れるためのビニール袋を勝手に押し付けてきて、受け取ったらお金を要求してくるストリートチルドレンもいる。子供たちはそれぞれの場所で、精一杯生きている。使い古された言い回しだけど「子供は親を選べない」というのはまさにその通りである。誰の子供として生まれてくるか、それはすべて前世の行いによって決まる、とミャンマーの仏教徒たちは考えている。すべてはその子供の運命なのだ。どの子供たちも、一日でも多く、生きていてよかった、と思える日々を過ごしてほしい。

(文:山本文子)

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