(前回のあらすじ)
イスタンブール最後の夜。スルタンアフメト・モスク近くで出会った自称学生二人に持っていた缶ビールを飲み干されてしまった私は、「代わりに奢るよ」の一言につられて、うかうかとイスティクラル通り裏手のバーまでついて来てしまった。ところがバーの雰囲気が明らかにおかしい。高そうな銀食器。巨漢のボーイ。やたら免許証をみたがる男たち。ジップアップパーカーを着た店の女性とお立ち台で踊りながら、わたしは彼女を味方に付けようと決めたのだが…。
学生と小指を繋ぎ、二度目のダンス
音楽がやんで席に戻ると、私は彼女に、生まれた街のことを尋ねることにした。彼女の郷愁を掻き立てることができれば、優しい気持ちになって、ついでに私に親近感を覚えてくれるかもしれないと考えたからだ1。彼女の故郷は、トルコとグルジア(ジョージア)(だったと思う)の国境近くだった。だから自分はここ(イスタンブール)の人たちとはちょっと違うの、と言っていた。違う、というのは、民族が違う、ということだったんだろうか。街の名前は聞いたはなから忘れてしまったのだが、今となれば、覚えておけばよかったと思う。私は「一度君の生まれた街に行ってみたいなあ」というセリフを嘆息を交えて吐いた。彼女を味方につけようと必死だっだにしても、あまりに浅薄で、あまりに気色が悪い。
自称学生たちは明らかに退屈そうにしていたが、一人はハイテンションをなんとか保っていた。彼が「トルコの伝統的なダンス」(真偽不明)をしようと言い出し、男三人横一列に小指と小指をつなぎ、腕を振って遊んだ。彼らは早くも話題が尽きて困っている風だった。小指のダンスが終わると、もう一度隣の女の人とお立ち台に立つように促された。彼女と二人きりで話ができるチャンスが、意外に早く再来した。
ロマンチックな音楽。またゆーらゆーらが始まる。私は彼女に嘘の事情を打ち明けることにした。——今、フィアンセと二人でイスタンブールに旅行に来てるんです…今夜が最後の夜で、フィアンセは今、ホテルで私の帰りをひとり待っているんです…早く帰らないといけないんです…——安宿のドミトリーで同行者がグースカ寝ているイメージが頭をよぎった。パーカーの彼女は何とも言えない表情を浮かべていて、目を合わせてくれなかった。彼女は私の話を真に受けただろうか。それにしても、婚約者と旅行中なのにひとりぼったくりバーにやって来て、酒を飲んで浮かれて小指をつないで騒いでいるなんて、救いようのないクズである。なぜわたしはこんな話で彼女から同情を引き出そうとしたのだろう。もしかしたら、カスのような婚約者を持ってしまった可哀想な「フィアンセ」への同情を誘おうとしたのだろうか。よく思い出せない。
私が、お願い、お願い、と言うあいだも、彼女は遠くを見つめたままで、なんの反応も示してくれなかった。私は失敗かと思い、なかば諦めながら、体を揺らし続けた。ところが、曲が終わるなり彼女は「帰りたいなら、あの二人(自称学生)に言っても無駄、私が店の人に言ってあげる」と言い残し、店の奥へ消えて行った。
56,000円也
一人で席に戻ってしばらくすると、さっきの巨漢のボーイが請求書を挟んだ皮張りのフォルダーを持って来た。パーカーの女性はもう出てこなかった。請求書に記載された金額は700リラ2。当時のレートで56,000円くらいだ。案の定、とは思ったが、それにしても高すぎる。アニス酒を二、三杯飲んだだけなのに!「この人らが払うから」と右隣の自称学生たちを指差すと、ボーイは彼らの方へむいてわざとらしくゴニョゴニョ話し、また向き直って「彼らはあなたが払うと言っています」と言う。まあそりゃそう言うやろな、とは思ったが、いや話が違う、とも思った。
そこからは自称学生たちと私とで、お前が払えよ、いやお前が払えよ、の応酬になった。私はさすがに一銭も出さないのは申し訳ないと思ったので、これが所持金全部だと伝えて20リラ(1600円)を机の上に置き(実際、カバンにはそれだけしか入っていなかった)、トイレに立った。もちろん、トイレの窓から逃げるためだ。ところが、トイレに窓はなかった。なるほど、店は地下なのだ。あほだった。
あっという間に万事休してしまった私は、とにかく大きな声で腹を立てることにした。どさくさに紛れて帰れるかもしれないと思ったからだ。「お前らが払うって言ったやろ!」という感じだ。(ついでに、フランスから持って来た1€ライターがポケットになかったので、「大切なライターが無くなった!すごく高価で大切なライターなのに!!」とも叫んだが、ボーイがすかさず差し出してきて、バツが悪かった)。
夜のイスティクラル通りを走る
大声をあげながらそのまま店の出口へ向かう階段を上り始めると、自称学生や店員がぞろぞろ後ろをついては来たが、意外にもすんなりと外に出ることができた。自称学生のうちの一人が、「なんで払わないんだよ!」と詰め寄って来た。「お前らがおれのビール飲んだからや!」ととっさに叫ぶと、相手はキョトンとした表情になった。それはそうだろう。いくらなんでも、缶ビールの飲み残しと、果物の大皿が出て来て女性が付いてくれるような店で飲む酒とでは、まったく釣り合わない。自分でも、言った瞬間に、これはセコいな、と思った。
ところがそこで、場の空気が一瞬緩んだ。その隙に思い切ってイスティクラル通りへ向かって歩きだしてみたが、後ろを追ってくる気配がない。私みたいなセコい貧乏人にこだわるよりも、別のカモを探した方が合理的だと判断したのだろうか。店についてから繰り返していた貧乏アピールが功を奏したのかもしれない。私は平静を装ってそのままゆっくりと歩みを進め、イスティクラル通りに出ると、体をくるっとかえして、思い切り駆け出した。
私のたてる足音に驚いて振り向く人たちを避けながら、イスティクラル通りを全速力で走った。しばらくいくと、タクシム広場の手前に警察官がいるのが見えた。私はほっとして立ち止まり、そばにあったATMからクレジットカードでお金を引き出し、タクシーを探した。数日前に会ったトルコ人の友人は、イスタンブールのタクシーはぼるから気をつけろと教えてくれた。でも、私はいま、もっと危ないぼったくりを回避して来たのだ。何を恐れることがあろう。気が大きくなっていた私は、広場に停まっていた一台のタクシーの窓をたたき、スルタンアフメト地区まで20リラで行ってくれと頼んだ。若い運転手は聞くなりうなずいて、慌ててドアを開けてくれた。
車中、私は興奮が収まらなかった。運転うまいね!とか、いい車だね!とか、とにかく喋りまくり、挙げ句は、運転手がセンターコンソールの上に置いていたパーラメントを一本抜いて、吸い出してしまった。たちの悪い客だったと思う。運転手さんに申し訳ない。なお、イスタンブールのパーラメントも、やっぱり点線が入っていた。
ホテルに着くと、メーターは明らかに20リラを上回っていたが、運転手は、いいよいいよと言って降ろしてくれた。すっかり夜が更けてしまった。同行者も心配しているだろう。でもきっと、私の冒険譚を楽しく聞いてくれるに違いない。私は宿の階段を駆け上がり、私たちのドミトリーのドアをあけた。ところが部屋はやけにしんとしている。ベッドを覗き込むと、同行者は、私が出た時と同じ格好でスヤスヤ眠っていた。
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(終わり)
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