タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

ムスリムのなかのムスリム・マイノリティ

イスラムには「神は唯一である」というゆるぎない根本原理があるとはいえ、時代や地域によって多様な実践が存在してきたことも私たちは知っている。タイ南部国境地域とくに深南部と呼ばれる地域におけるムスリムコミュニティ内部の多様性に関心があるといいつつ、何かを書かなくてはならないときに頼りにしてきたモノの見方はイスラムの伝統派と改革派の対立という構図だ。こうした図式に落とし込んでしまうことで、こぼれ落ちてしまうことが実はとても多い。今日書いてみたいと思っていることは、私の書いたものにはいっさい出てこなかった人たち、シーア派とスーフィーのことだ。

タイではムスリムは人口の5パーセント程度のマイノリティである。人口規模がもっとも大きいのがタイ南部国境地域に集住するスンニ派のマレー系で、深南部では分離独立運動も起こっているときた日には、世の中の注目はマレー系に行きがちだ。しかし、タイのムスリムコミュニティは、じつに多様である。タイ王国のイスラム共同体の指導者であるチュラーラーチャモントリ1は長らく特定の一族の、それもシーア派に属する人々が担っていた。中部や北部にもムスリムの人たちはたくさんいて、スンニ派でも東南アジアに多いシャーフィイー学派だけでなくハナフィー学派、シーア派も十二イマーム派やファーティマ朝下で暗躍した暗殺教団の流れを汲むニザール派に属する人がいるといわれているし、スーフィーの主要な一派であるナクシュバンディーもいる。イスラム神秘主義と訳されることもあるスーフィズムは、イスラムの精神的側面を象徴してきた。ジクルという神の名をただひたすら唱える行為が、修行の一環として行われていることが多い。

スキンヘッドに長いあごひげ、一度見ると忘れられない姿をしているクリストファー・ジョル先生(ニュージーランド人)は、タイ南部国境地域を含めてタイのイスラム実践やスーフィズムの研究を長年続けてこられた。2014年、クリス先生とアユタヤのモスクで行われたマウリド(預言者ムハンマドの生誕祭)に行ったとき、ナクシュバンディーの本場でもあるトルコからも取材が来ていた。ひたすらビスミッラー(アッラーの御名において)と唱える老若男女、高揚感に包まれるモスク、聖者の棺の前で泣き叫ぶ人々、ただただ圧倒された記憶しかないが、当時の写真やビデオを格納したハードディスクが奇妙な音をたてて壊れてしまった。復活した日に、また写真などを追加できたらと思う。

どんなときでも微笑みを絶やさないクリス先生、目が笑ってないことも多くて怖いが、タイのイスラムに関心のある人をあらゆる側面からサポートしてくれる。フィールドに連れて行ってはくれたが、どこかよくわからない所に一人置いてけぼりにされたのも良い思い出だ。

深南部のシーア派

南部国境地域のマレー系のほとんどがスンニ派のシャーフィイー学派に属しているが、ごくまれにシーア派がいる。タイ南部で、その辺にいるムスリムの人にたずねてみると「シーア派はイスラムではない」という紋切り型の答えが返ってくることがほとんどだ。たいてい宗教の先生や身近な知識人が言っていることの受け売りをしていて、じつはシーア派が何なのかよくわかっていなかったりする。なかには土地の伝統に混じる「イスラム的でない」要素を取り除くことを主要な目的とするイスラム改革派といっしょくたにしている人さえいて、改革派の人の耳に入ったら激おこ間違いなしだ。その辺の人でも知識人であれば、シーア派はアリー(預言者ムハンマドの娘婿)を神聖視する、礼拝を5回しない(3回、ときには1回でよいとされている)、一時婚2の存在によって風紀が乱れるなどといった理由を挙げ、イスラムの根幹が歪められていることを問題視していた。

1980年代、世界中のムスリムがいる地域で、宗教への回帰現象が観察されるようになった(イスラム復興ともいわれる)。1979年、シーア派を中心とするイランで「イスラム」革命が実現した。深南部では80年代にイラン革命の影響を受けた人々が、国鉄ヤラー駅裏手にある市場近くにモスクを建てたといわれる。そのモスクでは、イスラムの原典への回帰を志向するイスラム改革派が台頭し、しだいに対立が深まったことで、シーア派を支持する一派はモスクを離れた。ただシーア派のことを聞いたことがあるという人からは、彼ら(シーア派)がヤラー市内のタラート・カオ(古い市場)にいるらしい、と教えてくれるだろう。

シーア派の名は、1987年から1990年にかけてクルセ・モスク3を舞台に起こった反政府デモにおいて表舞台に登場した。パタニ王国(深南部に20世紀初頭まであったイスラム教の王国)時代の歴史建造物であるクルセ・モスクは、タイ政府によって文化遺産に指定された。文化遺産となり観光地化されることで使用が制限されるが、モスクはムスリムにとっては礼拝をおこなう場でもある。イスラム復興の流れのなかで、宗教指導者を中心に抗議が生じ、一時は10万人を超える市民が集まるなど、大規模なデモとなった。このデモにおいて重要な役割を果たしたのが、先のシーア派の支持者らだった。ちなみに、私はまだ確認できていないのだが、2015年以降に聞いた話では、西海岸側に位置するサトゥーン県でシーア派が増加しているというもっぱらの噂である。

数々の象徴的な出来事の舞台となったクルセ・モスク

布をまとう人びと

スンニ派のなかでもスーフィーのタリーカ(教団)に属し、山中などで修行している人たちがいる。スーフィー・タリーカの一部は、1970年代から80年代にかけて、タイからの分離独立を掲げる武装闘争にかかわっていたともいわれる。2004年にクルセ・モスクに立てこもった武装組織のメンバーは、敵から見えなくなる術、弾除けのお守りや聖水などを用いたとされ、スーフィズムの影響が指摘されていた。山の中の人たちを私自身は見たことがないし、彼らの存在を知っている人もめったにいない。関心がある方は、オンラインで手に入る論文も多数あるので、あごひげのジョル先生のご著作を参照してもらいたい。以下は、かなり断片的ではあるが、緑の布をまとった人、あるいは白い布をまとった人について私が小耳にはさんだ話だ。

緑の布をまとった人々に会うことは、容易ではない。話を聞かせてくれたおじさんは、グループの連絡役のような人とつながることができて、ある日、緑布の指導者を訪問することが許され、深い森のなかに入っていった。指定された場所にたどり着いたが誰もおらず、人の気配も全くない。しばらくすると指導者と思われる人物があらわれ、立ったまま話をした。20分くらい経ったときだろうか、その指導者が森にむかって声をかけた。すると誰もいなかったはずの森から、突如として20人ほどの男女、子供が目の前にあらわれた。腰を抜かした彼をみて、人々は笑ったという。

森の中で暮らす緑の布、白い布の人たちは、常人を超えた能力を身に着けているらしい。普通の人の目に見えない、見えなくする能力があるという点のほか、ご飯を食べなくても生きていける、非常に少ない量で何日も生きることができるということも聞く。別の知人は、1週間に1回程度、山から白い布をまとった人が下りてきて白米を求めていくと教えてくれた。よその村に来ている様子はないらしく、知人は山の中にいる人は本当にご飯を食べなくても何日でも生きられるのだと確信しているようだった。近くの村出身の別の知人に聞いてみたら大笑いされ、山の中にいるのは超能力者でもなんでもなくて分離独立派のゲリラだ、彼らのなかには特定のタリーカを構成している者もいるだろうけど、山のなかで軍事訓練しているのだよ、という答えが返ってきた。私のイメージする緑布、白布はゲリラとはほど遠い仙人のような人たちだが、こういう意見もある。

あんな山、こんな森

ここに書いてきたのも、深南部のイスラムのほんの一面だ。タイ南部国境地域において、伝統派と改革派が対立しているということくらいは村の人でも知っているけれど、シーア派やスーフィーとなると、存在さえ知らないという人も多い。そこで暮らしている人の目に映っていなかったとしてもシーア派やスーフィーはたしかに存在するし、宗教にそこまで熱心でない人たちも含めてさまざまだ。移り変わる世界のなかで、人々にとってイスラムがもつ意味だけではなく、イスラムに対する向き合い方も、イスラムをめぐる実践も変わっていくだろう。こうした点を、細々とでも観察してゆけたらと願うばかりだ。

  1. チュラーラーチャモントリはアユタヤ時代に起源をもつ官職で、ペルシアの商人であったシェイク・アフマドに対して付与されたのがはじまりである。
  2. 通常の婚姻契約では、期間を限定することはない。一時婚とは、期間を限定した婚姻関係のことで、シーア派では合法とされている。イスラムでは、婚姻外の性行為は罪である。シーア派では一時婚の制度は、社会の変化やニーズを反映しつつ、姦通罪や婚外子の出生を避ける一つの策とみなされることもある。地域によって一時婚が悪用されるかたちで、女性や幼女が売春の被害にあっていることが報告されている。たとえば、イラクの事例について扱ったBBCドキュメンタリー。https://www.bbc.co.uk/programmes/p07ptd0f?ocid
  3. クルセ・モスクは、タイ政府と反政府武装組織とのあいだの紛争が激化した2004年、立てこもった反政府武装組織のメンバー32名が軍の攻撃によって殺害される事件が生じた現場としても知られる。クルセ・モスクをめぐる歴史や伝説については、また別の記事で書きたい。

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