タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

タークバイの悲劇から20年:深南部紛争はどこへ向かうのか

タイ南部の国境地域では、タイ政府による統合政策が強化された1960年代以降、旧パタニ王国の領域(深南部)1の解放と独立を求める運動側と政府との間の緊張関係が高まり、ときに武力対立として噴出してきた。2004年は、1990年代に沈静化したと思われていた深南部における紛争が再燃し、これまでにないほど激化したメルクマール的な年として記憶されている。

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2004年1月4日、ナラーティワートの陸軍基地から400丁の銃器が奪取され、4人の軍人が殺害される事件が生じた。同年4月28日、ソンクラー県内の1か所、ヤラー県内の3か所、パッターニー県下3か所の軍関連施設やチェックポイントで同時多発的な襲撃が生じ、6人の軍人が死亡、108名の若者が死亡した。旧パタニ王国の歴史遺産であるクルセ・モスクに立てこもった軽武装の戦闘員32名を軍が包囲し、殺害したことでのちに「クルセ・モスク事件」として知られることになる事件である。

タイ深南部では、2004年以降、軍や警察に強い権限を与えることを可能にする法律が適用されてきた。軍に統治権が移行する戒厳令のもとでは、捜査・勾留に裁判所の令状は必要なく、7日以内であれば令状なしで勾留することができる。2005年に制定された緊急事態における行政執行に関する勅令(緊急勅令)のもとでは、捜査・逮捕に裁判所、警察行政組織の合意に基づく令状は必要であるが、30日以内であれば令状なしで勾留が可能となっている。たとえば、戒厳令のもとで実施される「捜査」は軍の作戦の一環でもあり、作戦の遂行上生じた損害について軍隊は免責される。つまり裁かれることがない。戒厳令や緊急勅令のもとで、分離主義者だと疑われた人物に対する身体拘束や拷問、超法規的殺人といった人権侵害が続いてきた。

軍は対反乱政策として村落部の一般人を武装させ、治安維持の要員として組み込むことも行ってきた。村落レベルでの自主防衛政策を導入し、村人を訓練して村落防衛ボランティア(チョーローボー)を組織させたのもその一環であった。ナラーティワート県下ではおよそ4000丁のショットガンが配布されたといわれる。2004年10月25日に生じたタークバイ事件の発端は、このショットガンが防衛ボランティアの手から分離独立派武装組織のメンバーと思われる者に奪い取られた出来事であった。

タークバイ事件2

10月13日、事態を報告するために警察に出頭した防衛ボランティア6名が、尋問のために南部地域を管轄する軍組織である第4軍管区側に送られた。24日、軍は6名をタークバイ警察署に送致した。警察は6名を拘留するとともに、起訴を進めた。10月25日の早朝、防衛ボランティアの家族が保釈を求めて警察署を訪れたものの、認められなかった。

1月にナラーティワート県の陸軍基地から銃器が盗まれたときには、兵士は誰も逮捕されなかった。しかし今回のように6丁の銃が奪い取られた防衛ボランティアは身柄を拘束されたうえ、保釈さえ許されない。抗議する人びとが、タークバイ郡警察署前に集まり、その人数は膨れ上がっていった。このなかには抗議のために集まった人びとだけでなく、たんに通りがかっただけの人や、「断食明けのための菓子類の配布がある」というアナウンスを聞いてかけつけた人もかなりいた。25日の午前11時には、700~900名がタークバイ警察署前に集まった3。午後3時ごろ、当局はデモ解散のために放水するとともに催涙ガスを投げ込み、当局側の発砲が原因でその場で6名が、のちに1名が搬送先の病院で死亡した。当局側はデモ参加者が武器を用いたと主張したものの、そのような証拠は見つかっておらず、犠牲者は頭部や身体を背後から撃たれていたことが明らかになっている。

これだけでも相当にひどい話であるが、さらなる惨劇が続く。治安当局はデモが行われたタークバイ警察署に通じる道を三方とも封鎖し(もう一方は川なので逃げることができない)、1224名のデモ参加者を拘束した4。拘束の際に、無抵抗の市民を銃で殴りつけたり、足蹴にするなど暴行を加えている様子が動画や写真にしっかりと記録されている。

とくにメディアで広く報道されて世界中に衝撃を与えたのが、服を脱がされた、上半身裸の男性たちが見渡す限り路上に寝転がされている様子である。よくみると彼らは全員、後ろ手に縛られている。当局はデモ参加者を騒乱の罪で収監すべく、145キロ離れたパッターニーのインカユット基地へ移送することを決定した。移送にあたって、人びとは後ろ手に縛られたまま、資料や証言によって数字が多少異なるが、4~6層にわたって積み重なるよう25台ほどのトラックに詰め込まれた。通常であれば2時間もあれば着くはずの道のりを5~6時間かけて移送した結果、78名が圧死・窒息死し、銃撃によって死亡した7名を合わせると85名の命が失われた。

映像の30秒〜2分のあたりを見ていただければ、当時の様子が少しは伝わると思う。

タイでは、後輩の兵士をいじめ抜いて死なせたり、重圧から精神に異常をきたした兵士が銃を乱射してしまったりする事件が、定期的にといっていいほど報道される5。そのような組織にいる人たちだから、死者を出すであろうことが明らかな移送方法についても何とも思わなかったのかもしれない。折しもラマダン(イスラムの断食月)であり、日の出から水も食料も口にしていなかったために犠牲が増えたともいわれる。平和な国であれば、一度に85名もの一般人が死ぬことはありえない。亡くなったのは全員男性で、残された遺族には女性の姿が目立つ。そして遺族だけでなく、心と体に不可逆的な傷を負った生存者が現在でも苦しみを抱えつつ生きている。

タークバイ訴訟の系譜

タークバイ事件では「デモ参加者」の数が徐々に増えた結果として1370名の市民が逮捕され、そのうち59名(1名はのちに死亡)が事件の首謀者として訴訟を起こされた。2006年9月19日のタクシンを追放するクーデターを主導したスラユット・チュラーノンは、11月2日にパッターニーを訪れムスリム市民に対して謝罪を行い、11月6日に59名の提訴を取り下げた。この「謝罪」については、評価する声が聞かれる一方で、「タクシンが悪かった」と言っているだけで中身がないと冷ややかに受け止める声も聞かれる(実際に彼は、“前政権の代わり”に謝ると述べている)。

クーデター以降、深南部のムスリムとの間の分断だけでなく、タクシン支持派(赤シャツ)と反タクシン派(黄シャツ)の対立が激化し、国民が分断されていった。2010年、首都バンコクで展開された2か月に及んだ赤シャツの反政府運動を軍が強制排除したことで、90名以上の死者と2000名ちかい負傷者を出す大惨事をタークバイ事件のわずか6年後に引き起こした。

タクシンの実妹のインラックが2011年に政権を獲得すると、2012年1月、政治的暴力の犠牲者への金銭的な補償が閣議決定されている。その後、8月に深南部の紛争犠牲者への補償の拡充が決定された。10月に南部国境県行政センターの事務局長に任命されたタウィー・ソートソーン警察大佐6がイニシアティブを発揮しつつ、深南部における補償政策が進められた7。いずれも「国民和解」という流れを踏まえる必要があるが、金銭的な補償はされても、治安部隊の刑事的責任が問われることはなかった。補償を肯定的に受け止める被害者がいる一方で、タークバイの遺族が求めてきたのは司法のプロセスを通した正義の実現と真実の解明である。

2024年に提訴が受理されたことで注目を集めたとはいえ、遺族が20年のあいだ黙っていたわけではない。事件のことを「忘れようとしない」市民に対して、警察が呼び出して事情聴取をしようとするなどして萎縮させようとしてきた8。市民がこうした圧力に耐え、勇気を振り絞って訴訟に踏み切ったことを私は忘れないようにしたい。タークバイ訴訟は、市民が軍隊や警察によって殺害されたことについて、政府高官を相手取って起こした初めての訴訟でもあった。

2005年から2006年にかけて、遺族と被害者が軍隊と防衛省を訴え、民事訴訟において損害賠償が認められた。現地の女性組織などが関与しつつ、おもに調停に基づいて解決されていった9。当局の監督下において市民が死亡した場合、刑事訴訟法の150条に基づいて裁判所が死因を解明することが必要とされている。2009年5月29日、ソンクラー地方裁判所が調査を終え、公務のプロセスにおいて圧死・窒息死したことを認定したものの、死亡時の詳しい状況や当局側の責任は明示することがなかった10。タークバイ警察署前で死亡した7名については、誰によって引き起こされたのか不明とされた11。遺族は調査が不十分であるとして、内容の見直しを求めて最高裁に控訴したが、2013年8月1日に治安当局は任務を遂行しただけであり、法的に問題はなかったとソンクラー地裁の判断を支持している12

時効が翌年に迫る2023年10月の追悼イベントで、遺族が刑事訴訟の進捗状況をムスリム弁護士センターの人に尋ねたところ、その元同僚で国会議員をしている法律委員会委員長を通して12月に衝撃の事実が明らかになった。訴訟が全く進んでいない上に、調書が紛失していたことが判明したのである13。一致団結した遺族は、2024年4月25日ナラーティワート地方裁判所に自ら提訴した。市民が訴訟を起こした9名のうち、7名の提訴が8月に受理され、9月の第1回公判で被疑者らが出頭しなかったため逮捕状が出された。その後、2024年9月18日に検察長官が8名(その多くはドライバーなど)を提訴したことを発表し、タークバイ事件がにわかに脚光を浴びるようになった。

逃げる権力者たち

タークバイ事件が生じたのは、8月に首相に就任したペートンターン・チンナワットの実父、タクシン政権下のことであった。2024年9月に検察長官が、ドライバーを中心とした8名の被疑者の訴追を命令した。遺族が起こしていた刑事訴訟で受理された7名のうちの1名は重複しているため、合計で14名が訴えられたことになる。一気にメディアが騒がしくなりインターネット上でも追いきれないほどの報道がなされるようになった背景の一つとしては、遺族側の訴訟の「被疑者番号1」が、当時の第4軍管区長官ピサーン・ワッタナウォンキーリーであり、ペートンターン率いるタイ貢献党に所属する議員だったことが挙げられるだろう。

ピサーンはタクシンとも親しいことが知られていた。第4軍管区は、深南部を含む南部地域をカバーしている。たとえ現場の詳しい状況を把握できていなかったにせよ、タークバイ事件で問題視されたデモ参加者の非人道的な輸送手段にゴーサインを出した責任者が、娘のペートンターン率いるタイ貢献党から比例代表制とはいえ議員として当選しているのだ。ピサーンは病気療養を理由に10月いっぱいイギリスに滞在予定とされ、当初、誰も連絡がつかないと報道されていた(その事実を伝えている人たちは、そんなことはありえないと思っていることを明に暗に述べていた)。ピサーンが離党届を出したことで、ペートンターンおよびタイ貢献党としては、あとは警察と司法の仕事だから邪魔をしないというスタンスを維持した。

じつは10月上旬の時点で逮捕状が出されたなかで「被疑者番号8」元南部国境県平和構築センター副所長シワ・センマニーが東京にいることが報道されており、タークバイ事件は日本に住む私たちにとっても他所事ではなかった14。タイと日本は犯罪人引渡条約を締結していない。そこでペートンターンが、ASEAN関連首脳会議が行われたラオスのビエンチャンで、石破首相に外交を通じた被疑者送還の協力を依頼するかという点が注目されていたが、それもなかったようだ。

時効が刻々と迫るなか、マスコミ向けの演出としか思えないような捜索は行われたものの15被疑者の誰一人として逮捕されることなく、被疑者が裁判所に出頭する気配もなかった。そして2024年10月25日をもって、時効が成立した。現在に至るまで、当局側の責任は誰一人として問われていない。あの日、どうして家族が命を失うことになったのか、司法のプロセスを通して真実を明らかにすることを求め続けてきた遺族の失望は想像するにあまりある。

やはり奇跡は起こらなかったが

タクシン政権とインラック政権でも重要な役職を歴任し、ペートンターン政権では法務大臣をつとめる、つまりチンナワット一族のもとで活躍してきたタウィー・ソートソーンは現在、深南部を票田とするプラチャーチャート党の総裁を務めている。しかし今回の一連の騒動で「奇跡を待つ」といった以外は全くといっていいほど存在感を発揮することがなかった。権力者、とりわけ治安部隊の責任が司法の場で問われることになれば、それはまさしく奇跡に近いことだった。多くが予想していたように、奇跡は起こることがなかった。

タイの司法は、政治や軍の圧力によって大きく歪められてきた。非常事態が続く深南部では、プロフェッショナリズムと良心があったら裁判官として生きることはことさら難しくなる。それを象徴する人物ともいえるのが2019年10月4日にヤラー地方裁判所の法廷内で「判事に判決を、人々に正義を返せ」と遺書を残してピストル自殺を試みたカナーコーン・ピアンチャナ判事である。カナーコーン判事はその後、2020年に死んでしまった。

日本においても、同じ法が適用されない人びとを揶揄する”上級国民”という言葉が流行語にもノミネートされていたが、エリートや金持ちには一般人と同じ法が適用されないようだと、私たちはうっすら気づいている。とりわけタイでは、それがあからさまだということは、数か月暮らしてみれば経験できるはずだ。

政治的なリーダーシップあるいは根回しがこれ以上になく必要なときにペートンターンは司法の問題だと突き放し、時効成立の1日前「このような悲劇は二度と起こさない」と謝罪することで幕引きを図ろうとした。25日金曜日の時効成立を経た週明けの28日、検察が訴追していたドライバー(現在は郡の行政官、しばらく行方がわからなかった)は何事もなかったかのように出勤した。20年も前のことで、自分はただのドライバーにすぎないというのだ16 。権力側の誰一人として、法のもとで事実を明らかにするプロセスに向き合うことなく、何なら自分には責任がないとさえ思っていそうである。司法は機能不全を起こし、法の下の平等は絵空事だと思われている。

絶望的な状況のように思えるが、筆者自身は、ほのかに希望も感じている。タークバイ訴訟をめぐっては、深南部問題に関心がなかったであろう若者たちの間でも注目が集まっており、国家が引き起こした不条理と逃げるだけで責任を取らない権力者に対する憤り、そしてマレームスリムへの共感がみられた。これには2019年頃から若者の間で高まった王室と軍の政治的影響力への疑問と民主化を求める動きも関係しているだろう。いまや彼らのなかで、血の水曜日事件(1976年10月6日にタマサート大学構内で起きた警察や右翼組織による学生・市民の虐殺事件)とタークバイ事件がつながっている。2014年10月、タイに渡ったばかりのころ、深南部に行くといっただけで、バンコクの学生に「なぜテロリストの肩をもつのだ」と言われたことがある筆者には隔世の感がある。

タークバイ事件は、深南部のマレームスリム市民に降りかかった悲劇として記憶され続けてきたが、その記憶はマレームスリムや深南部という境界を超えて、タイという国家に押しつぶされてきた名もなき市民たちの歴史に連なっていったようにも思える。さらにパタニの歴史やマレー文化について語ることは、かつてのようにタブーではなくなった。タークバイ訴訟をめぐる政府の一連の対応は、当事者や関心をもってみていた市民を失望させただけでなく、反政府組織のみを暴力的な盗賊やテロリストだと糾弾してきた権力側の欺瞞を世に知らしめた。タイ国家の統治構造が変わらない限り、反政府組織にとって今後も暴力は一つのコミュニケーションの手段となり続けるだろう。しかし確実に起こっている草の根の変化は、タイからの独立までは認められないにせよ、深南部における高度な自治と和平の実現という点にポジティブな影響を与えるのではないかと思っている。何より、あきらめずに戦ってきた人びとの力を大いに信じたい17

  1. パタニ王国は1786年のシャム(タイの旧称)による侵攻で壊滅状態に陥ったのち、イスラム教育の中心地としての名声は保っていたものの政治的な衰退を余儀なくされた。その後、1901年に近代的な行政制度の構築を進めるシャムに組み込まれた。マレー半島の植民地化を進めるイギリスとシャムとの間で南部の国境が確定したのは1909年のことであった。旧パタニ王国は、現在のパッターニー、ヤラー、ナラーティワートの3つの県と隣接するソンクラー県の東南部を含んでいるとされ、この地域は深南部(Deep South)または南部国境県とも呼ばれている。
  2. タークバイ事件については多くの報告がなされているが最近のものとして、Human Rights Watchの記事が参考になる。ประเทศไทย: 20 ปีของความอยุติธรรมสำหรับเหยื่อการสังหารหมู่ที่ตากใบ | Human Rights Watch
  3. “รายงานเบื้องต้นเรื่องกรณีความรุนแรงที่ตากใบกับปัญหาความมั่นคงของมนุษย์ในพื้นที่ 3 จังหวัดชายแดนภาคใต้”, p.3.
  4. “รายงานเบื้องต้นเรื่องกรณีความรุนแรงที่ตากใบกับปัญหาความมั่นคงของมนุษย์ในพื้นที่ 3 จังหวัดชายแดนภาคใต้”, p.6.
  5. 軍隊のリンチともいえる行き過ぎた鍛錬・懲罰文化に対してタイの英字紙Bangkok Postの編集部も2017年11月の記事で警笛を鳴らしている。Bangkok Post – Army bullying must stop 2020年2月8日に生じた銃乱射事件は日本でも大きく報道されたので、記憶している方もいらっしゃるかもしれない。タイやお隣のミャンマーもそうだが、軍の将校らが国営企業の役員などをしていたり、グレーゾーンのビジネスを通して私腹を肥やしていることもめずらしくはない。犯人は、上官との経済的な利益をめぐるトラブルが原因で事件を起こしたとされている。「頭を狙っていた」 タイで29人死亡の乱射、生存者が恐怖語る – BBCニュース。2024年2月には上官によるいじめを理由とする自殺未遂が報道されている。https://thethaiger.com/news/national/thai-soldier-seriously-injured-in-suicide-attempt-at-military-camp
  6. タウィーは深南部紛争の犠牲者への補償政策に重要な役割を果たし、かつ現地の人びとの間でも人気があったことは以下の真辺論文(2020)においても描かれている。とはいえ、なかなかに両義的な人物である。2014年にインラック政権がクーデタで打倒されたのち、2019年の総選挙に向けて、深南部出身のイスラーム知識人でもあり、ベテラン政治家のワンムハンマドノー・マターを代表としてプラチャーチャート党が結成された。ムハンマドノーは深南部出身の議員から構成されるクルム・ワダ(統一グループ、1986年設立)の指導者の一人であり、2002年にクルム・ワダのメンバーが当時所属していた新希望党がタクシン率いるタイ愛国党と合併した。クルム・ワダはタークバイ事件でタクシン政権に対して批判することができず(とりわけムハンマドノーはタクシンから多額の資金援助を得ていたとされる)、深南部の市民の信頼を失った。それから15年後、タウィーはムハンマドノー率いるプラチャーチャート党の幹部かつ主力として総選挙に挑み、深南部ではプラチャーチャート党がほとんどの議席を獲得した。筆者が2019年に深南部を訪れた際、20代の若者の中にはムハンマドノーのやったことを知らずムスリム指導者であるという点で期待する者もいたが、一定年齢以上の大人はどの面下げてと冷ややかに眺めていた者も多かったように思う。2006年以降、亡命状態にあったタクシンは、2023年8月22日に歴史的な帰国を成し遂げている。これは憶測にすぎないものの、帰国後8年間の投獄が待ち構えていたはずのタクシンが、病院のVIPルームで1年弱過ごしただけで減刑され、無罪放免になったのにはタウィーを含む政治家らの働きかけ・根回しがあったのかもしれない。
  7. 補償に関する政策が詳しくまとめられているものとして、真辺祐子(2020)「国内紛争の「被害者」に対する行政的対応ータイ深南部紛争の被害者補償に関する政策分析ー」『タイ研究』20号、pp.111-135。
  8. 以下のアムネスティ・インターナショナルの記事では、タイにおける不処罰の文化に関連してタークバイ事件や深南部紛争当事者の経験を踏まえてまとめられている。ระเบิดเวลา 20 ปี จับตา “คดีตากใบ” เส้นทางสู่ความยุติธรรมก่อนคดีหมดอายุความปีนี้
  9.  Isra News Agency 2012年10月25日記事参照。 เรื่องเด่น-ภาคใต้ – 8 ปีตากใบ (1) เมื่อการเยียวยาไม่ใช่ทั้งหมดของความเป็นธรรม 調停が成立したことによって民事訴訟は終了したとみなされている。
  10.   1952年に設立された国際的な民間の人権団体、国際法律家委員会(International Commission of Jusirists)による2009年5月29日付のプレスリリースを参照。Tak Bai PR – Final
  11. Isra News Agency 2012年10月25日記事参照。 เรื่องเด่น-ภาคใต้ – 8 ปีตากใบ (1) เมื่อการเยียวยาไม่ใช่ทั้งหมดของความเป็นธรรม
  12.  The Nation 2013年8月1日記事参照。 Supreme Court upholds Tak Bai ruling
  13.  Isra News Agency 2023年12月14日記事参照。19 ปีตากใบ สำนวนคดี 85 ศพหาย! โอกาสสุดท้ายริบหรี่ก่อนขาดอายุความ
  14. Thai PBS 10月10日記事参照。 ผู้นำฝ่ายค้านจี้นายกฯ เจรจาญี่ปุ่น ส่ง “ผู้ต้องหาตากใบ” กลับไทย | Thai PBS News ข่าวไทยพีบีเอส
  15. 警察庁長官は時効1日前の10月24日に全国5か所で被疑者の逮捕のための捜索を命じている。Thai Rath記事参照。ผบ.ตร. สั่งค้น 5 จุดทั่วประเทศ จับผู้ต้องหา “คดีตากใบ” ก่อนคดีหมดอายุความ 1 วัน
  16. ター・ウテン郡の行政官、タークバイ事件の時効成立後に初出勤というDaily News Onlineの10月28日付の記事。‘ปลัดอำเภอท่าอุเทน’ พร้อมลุยทำงานวันแรก หลังปิดฉาก ‘คดีตากใบ’ | เดลินิวส์
  17. 本稿の執筆にあたって、パッターニー県在住の研究者・翻訳家である原新太郎氏から事実確認等の助力を得た。

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