先日「福岡アジアフィルムフェスティバル2024」にお邪魔してきました。アジアの今がわかる多様な映像が一同に会する貴重な機会です。今回いくつか映画を観たのですが、10月6日にミャンマーチャリティー上映があるということで、ありがたいことに縁あってトークゲストとしてご招待いただいたので、そのときの話をしたいと思います。
ミャンマーチャリティー上映ーー実験的映画2本
チャリティー上映された映画は以下3本。「Song of Souls」、「春のティータイム」、「ページをめくる間に」。会場は福岡アジア美術館8階のあじびホールで、ウェブサイトによれば120人くらい入る会場のようです。今回上映の映画は、実験映画やドキュメンタリーで、どれも難解というか、わかりやすい映画ではなかったのですが、それでも今のミャンマーに対する関心の高さなのか、半分以上は埋まっていた?でしょうか。年齢層はやや高めです。
福岡アジア美術館(以下「あじび」とします)所蔵の「ページをめくるあいだに」は今回久々に観ました。ヤンゴン映画学校で映画製作を学んだ映像作家で美術作家でもあるティーモ―ナインの2011年の作品です。この作品、かなり前にアジ美で展示されていたときに観て以来ですが、改めていいなあとしみじみ感じた作品です。製本作業をそつなくこなす女性たちの他愛のない雑談なのですが、他愛がないからこそ、なぜか聞き耳を立ててしまいます。喫茶店などで隣の客の会話になぜか聞き入ってしまう感覚でしょうか(彼女たちの会話がミャンマー映画や芸能人で、ゴシップ味があるのがなおよい!)。
同じくあじび所蔵の「春のティータイム」は今回初めて観ました。ワヌという現代美術作家の2003-2004年の映像作品です。ほのぼのしたタイトルに反して実験要素が強めでした。少女の思考がアリの動きで表現されるのですが、アリの動きなんて絶対にコントロールできません。好き勝手動きまわるアリは、あっちこっちに雑念が飛びまくる私たちの思考そのものです。「ページをめくるあいだに」と通じますが、コントロールされない「生(なま)のもの」の持つ力は偉大です。
トークでは主に「ミャンマー映画におけるドキュメンタリーの位置づけ」と称しつつ、ほとんどミャンマー映画のマニアックな話に終始してしまいました。私自身の関心についてもぜひ話してくださいという主催者の方の言葉に甘えまくり、私がミャンマー映画に興味を持つようになった経緯や、とくにミャンマー国内で大量に生産・消費される大衆映画に対する思いを熱弁してしまいました。その後、ようやく本題というか、ミャンマーにおけるニュース映画やドキュメンタリー映画の位置づけについて検閲の話を交えつつ、また3本の中で最長の「Song of Souls」の監督サイノーカンの過去作の話などをさせていただきました。そこで触れようかどうか迷いながら、時間オーバーで触れられなかったのが「Song of Souls」に出てくるシャンの女流歌手ナンミャーハンのことです。
Song of Soulsーー歌に込められたシャンの魂
この女流歌手が後半にメインで出てくるのですが、トークの前に彼女について情報を仕入れたいところだったのですが、ネットでどれだけググってもたいした情報をゲットできませんでした。シャン人の友人にダメ元で聞いたところ、名前だけは知っていたけど、姿を見たのは初めて!と、若干興奮気味でした。別に昔の人というわけでもなかろうに、幻の演歌歌手みたいな位置づけらしいです。幻の演歌歌手なんて言われたら、気になります。映画の最後のほうで、今回の映画監督に促される形で、外国に住む息子に向けて歌を歌うのですが、息子に歌うとなると声が詰まってしまうところにとくに感じ入るものがありました。
「Song of Souls」にはこの女流歌手のほか、いくつも目を引くトピックがありました。文化人類学の観点から、呪術としての刺青(以前の記事「タトゥー天国(後編)」も参照)も大いに目を引きました。呪術としての刺青においては、施術を施す人、染料、施術の時間帯、が肝です。特別な力を持った彫り師が、特別な動物や植物から採れる染料を使って、決まった時間に彫る、そうしないとその刺青は効力を発揮しません。映画の彫り師は、シャン軍の軍人たちに弾除けの刺青を彫ったと語っていました。刺青を彫ったからといって、弾を避けられるなんてそんなわけないだろうと思うかもしれませんが、そのような刺青を入れているという事実は、きっと軍人のモチベーションに影響してくるのでしょう。そう考えると、刺青を入れる意味はありそうです。
地元の霊媒が人々の悩みや病気を治すシーンも、興味深かったです。私はヤンゴンの霊媒を追いかけていましたが、病気治しの場面は見たことがありません。霊媒の元にやってくるのは、商売人が多かったです。霊媒を通じて、精霊に商売繁盛のための助力を乞うていました。現状に大きな問題はなく、さらなる発展を願うという感じでした。1960年代に中央ビルマでフィールドワークをした文化人類学者スパイロの『ビルマの超自然信仰(Burmese Supernaturalism)』によると、霊媒は、具合が悪くなった人などが助けを求めて駆け込んできたらその手当をしてあげる(もちろん無償で)というぐらいのものだったようです。ヤンゴンの霊媒たちは顧客から多額の謝礼を受け取っており、もはや一つの職業となっています1。
これらのほかにもシャンの大衆演劇やヤンゴンの精霊儀礼のような賑やかな僧侶の葬儀も気になるとことでした。どれもこれも掘り下げたら絶対面白いワンダーワールドが広がっていました。
あっという間のトークと上映会で名残惜しかったですが、翌日は月曜日。素敵な映画たちの余韻をとんこつラーメンで流し込み、博多の夜に別れを告げました。
★ちなみに『ミャンマー映画の社会史』と題して、植民地時代から現在に至るまで、ミャンマー映画を社会/政治/文化的文脈から語り直す書籍を出版する予定です。かつての白黒映画からB級大衆映画、昨今のドキュメンタリー映画も射程に入っています。原稿は完成しているので、あとは出版にこぎつけられるようがんばります・・。
★Facebookグループ「非常東南亜」に投稿したものに加筆しています。
- 余談ですが、この手の話は文化人類学的にはとっても面白いところです。私のかつての研究テーマの中心でもあり、大学で文化人類学の講義をしていたときにも好んで取り上げていました。我々から見ると無意味に思えるこうしたおまじない的行為を、人々はなぜ真剣に実施するのか。なぜおまじないを信じることができるのか。呪術に対するこうした疑問に対する説明は文化人類学の創成期からいくつも出てきましたが、未だに誰もが納得のいく説明はないようです。たとえばマリノフスキーは、トロブリアンド諸島の人々が航海前のカヌーにおまじないをかけるのは、おまじないをしておくことで、荒波にも負けずに生還できるはずだと、心理的安心感を得ているのだと説明しました。学生たちにはこの説明が一番しっくりきていたようです。たとえば私たちが試験に備えてお守りを買いますが、お守りを買ったからと言って突然頭が良くなると思っているわけではありません。持っていることでなんとなく安心するためだ、というわけです。かといって、トロブリアンドの人々も同じように考えているかどうかはわかりません。呪文を唱えたカヌーはそうでないカヌーとは別の「特別なカヌー」になっていると「本当に」考えている可能性もあります。言い換えると、おなじない自体に現実を変える力、つまり「実効力」があると考えている可能性は否定できません。マリノフスキーの説明は一見すると説得的に見えますが、やはりちょっとまだ穴があるように思います。では呪術に対してどんな説明が可能なのか。また機会があればほかの説明も紹介したいと思います。 ↩︎
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