いまだに自分の故郷だと自信をもっていうことができない無味無臭な大阪のベッドタウンで、そこそこ過干渉な親のもと育ったからだろうか。小学生のころ、自分が絡めとられてしまっている窮屈さとは無縁の暮らしをしているようにみえる、アマゾンの密林で暮らす人びとの姿に心を奪われた。四半世紀を経た2024年8月のお盆に、友人Kが紹介してくれた「アマゾンの鈴木さん」をたずねる機会をえた。そこはインディオが暮らす密林という、わたしが長いこと温め続けてきたイメージとはまったく違うアマゾンだった。
パラー州のアマゾン川河口に位置する州都ベレンからバスでおよそ4時間、日本移民のふるさとトメアスーがある。アマゾンに向けて日本から第1回目の開拓民が送られたのは1929年のこと、「緑の地獄」といわれた過酷な環境で多くの人びとが命を失い、退耕者(土地を離れて都市などに出ていく人)も続出した。歯を食いしばって耐え抜いた初期の開拓民は、戦後のピメンタ(コショウ)ブームで財をなし、ブラジルの地に根付いていった。1942年以降断絶していたブラジルと日本の国交が回復したのち、1953年に戦後移民が開始され、1973年に最後の移民船が日本を出発している。1954年、第二次世界大戦後初の南米訪問で浄土真宗西本願寺派門主・大谷光照夫妻が開拓時代の先没者の供養に訪れ、角田房子『アマゾンの歌』(1966)に出てくる山田義一家に一泊した。山田さんの土地に1982年に落成したのが、留安山トメアスー寺である。トメアスー西本願寺で開教使補[1]を務める人物が、アマゾンの鈴木さんこと鈴木耕治さん(84歳)だ。
十字路の町へ
ベレンに11時ごろ到着したわたしは、街を見物する暇も惜しんでバスターミナルに移動してクアトロボッカス(十字路)までのチケットを購入した(2024年8月時点で81レアル、約2300円)。トメアスーという名前の町もあるので、日本移民のふるさとに行きたい人は、バスのチケットを買う時、そしてバスの運転手にもクアトロボッカスとしつこく強調しておく必要がある。かつては移動手段が船しかなかったが、いまは道路が整備されている。トメアスーの町から20キロほど、トメアスー文化農業振興協会があるのがクアトロボッカスで、目印は2019年に完成した大きな赤い鳥居だ。しばらく住んでいたことがあるタイでも日本祭があるとかならず鳥居が設置されていたが、ブラジル全土にはおよそ150基の鳥居が確認されているという[2]。戦前のナチスとの合作映画『新しき土』のなかで、原節子演じる令嬢が住まう邸宅の裏庭に鳥居(宮島の大鳥居にしか見えなかった)が合成されていたことを思い出した。映画は白黒だったが鳥居は日本的な造形で赤いし、小さく作ればオブジェとして楽しめ、大きく作ればモニュメント感が出ていいのかもしれない。
午後2時発のバスに乗れば、クアトロボッカスに遅くとも6時には到着するはずだと誰もが口をそろえていった。ベレンの街を出てしばらくすると、車窓からみえるのは牧場ばかりで携帯電話に電波が入らなくなった。5時半を過ぎてもそれらしき場所には着かず、自分がどこにいるのか見当がつかないまま窓の外はどんどん暗くなっていく。わたしは、鈴木さんが迎えた人物で初めて、すっかり日の暮れた7時過ぎに到着した。
アマゾン移民とお寺
開拓の歴史については、アソシエーション2階にある日本人移民資料館(https://maps.app.goo.gl/MQ8XkWAVv98VP3V59)で学ぶことができる。2023年からJICAの協力隊の方が資料整理に取り組んでおられ、1階のオフィスでお願いをすれば案内もしていただける。とはいえ、当事者から聞く話にははかり知れないインパクトがあった。戦後のトメアスーの歴史の生き証人でもある鈴木さんはもちろん、今回の旅のさまざまな場面で助けてくださったアキコさんの壮絶なライフヒストリーは、改めてしっかりとまとめたい。
トメアスー開拓の歴史をたずねる旅は、墓地の訪問から始まった。墓地の中央には遺体を安置する簡易な建物があり、それを囲むようにキリスト教徒と仏教徒(日本人)の墓地が並んでいた。ブラジルは土葬なのでお墓のスペースは日本より広く、日本式の墓標を建ててもまだ十分な空間があった。「この人はすごい人だった」「ここには妻と息子が入っている」と少し哀しそうに、でも懐かしそうに思い出を語る鈴木さんが、ふとした瞬間怒ったように「管理が日本人の手からブラジル軍に移っていいかげんになった」とぼやいていたのが印象的だった。確かにその場その場で空いている場所に区画をつけたのか、まっすぐと歩けず迷路のようになってしまっている。お墓の前に線香やロウソクを立てるところはなく、鈴木さんは空いているスペースで線香一束に豪快に火をつけ、経を唱えた。鈴木家のお墓には、墓標の横にマジックで法名が書かれた板切れが、朽ちていくのもそのままに土に差し込まれていた。
お参りのあとでたずねたのが、鈴木さんにトメアスー本願寺を託した山田元(はじめ)さんだ。元さんは1929年に2歳で広島から両親と移住した第1回移民で、わたしの実家が広島ということと、トメアスーのキーパーソンということもあってお会いしたかった人物でもある。トメアスーを舞台にした小説『アマゾンの歌』には元さんもしっかり出てくるし、フジテレビ開局20周年、日本移民70周年の年に合わせて制作された『アマゾンの歌』で主演の仲代達矢が演じたのが元さんの御父上、義一さんだった。お寺がなかったときは、葬儀に困った移民がキリスト教会に頼らざるを得ないこともあったと聞く。義一さんは、熱心な安芸門徒だったことが周年史などの記録にも残されている。御年97歳の元さんは、眼鏡なしで、小さいメモの文字を読みあげた。わたしを呼ぶ「ナオミさん」は、亡き祖父そのものだった。広島では、名前が3文字だったら真ん中の音が上がるのだ。「広島のどこ?」「安佐です」「ぼくは双三郡」というやりとりを5回くらい楽しくして、乾いたしわしわの手をにぎった。
今回の旅で「日本人」という言葉が出てくるたびに、そしてわたし自身がその一部として語られていることに気づくたびに、戸惑いを感じている自分がいた。振ってもカラリとも音のしない張りぼてのようなわたしは、精神力などみじんもないし、怠惰で辛抱も足らないときた日には合わせる顔がない。移民、とくに初期のアマゾン移民はもはや棄民に近く、日本においてもそうしたイメージで語られることが少なくない。原生林を切り開き、マラリアに何度もかかりながら極限状況を生き抜き、ブラジルの大地に根を張った名もなき日本人の姿は、小説だけでなく論文やドラマ、ドキュメンタリーのかたちで記録されてきた。移民自身の手でまとめられた周年史はとりわけ、事実が淡々と書かれているのだけれど、いや、そうであるがゆえに、日本人が成し遂げたことへの誇りにあふれていた。
1930年代、日本は年間100万人規模で増える人口を養うことができず、多くの日本人が故郷に錦を飾るという思いを胸にブラジルに渡った。故郷に帰るつもりだったのだから当然、子弟の教育、とりわけ日本語教育には並々ならぬ思いがあったことが伝えられている。1965年にトメアスーを訪れた角田房子は「私は空港に着いた第一印象で、トメアスーを“完全に日本人の支配する世界“と感じたが、その後滞在期間が長くなるにつれて、この感じはいっそう強くなっていった」と記している。わたしの第一印象はというと、トメアスーはブラジル人の町に変貌しつつあると感じ、その後数日滞在するなかで、その感じはあながち間違ってはいないこともわかった。
祖国に見捨てられ、地獄を生き延びてきた移民。アマゾンの鈴木さんは、こうした移民のイメージとは全く違っていて、1960年、夢と希望にあふれた二十歳の青年としてブラジルの地を目指した人物だった。
[1] 海外の寺院を拠点に浄土真宗の国際伝道活動に携わる僧侶のこと。鈴木さんは龍谷大学の出身ではないので開教使補にしかなれないそうだ。
[2] 「《記者コラム》1千団体ひしめく日系社会の今=知られざる鳥居大国ブラジルの謎」ブラジル日報2024年4月30日。https://www.brasilnippou.com/2024/240430-column.html サンパウロ人文科学研究所『多文化社会ブラジルにおける日系社会の実態調査』(2021)では日系団体の回答に基づいて78か所と記載されている(74頁)。移民関連の情報は、人文科学研究所(https://www.cenb.org.br/)や移民文庫(https://www.brasilnippou.com/iminbunko/iminbunco_capa1.htm)を参照した。
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