ブラジル

鈴木青年、ブラジルへ行く

2024年8月、私はブラジルのトメアスーにあるお寺の住職・鈴木耕治さんを訪ねて、かねてから行きたかったアマゾン地域に向かった。トメアスーは「日本移民のふるさと」として知られている。移民や開拓民といえば、過酷な環境を耐え抜いてきた人びとというイメージで語られ、小説やドラマでもそのように描かれている。第二次世界大戦後、敗戦国となった本土に、植民地だった満州や朝鮮半島から大量の日本人が引き揚げてきた。敗戦直後の日本に引揚者を養う余力はなく、土地を持たない彼らは山間部などの未開墾地の開拓農民として全国に入植していった。戦後、トメアスーを含むアマゾンに移住してきた人のなかには、両親が外地から引き揚げたのち、家族の生き残りをかけてブラジルに渡ったというケースも多かった。

鈴木さんにはそういった経緯があったわけではなく、自らの力で道を切り開き、農園主になるという希望に燃えて新天地を目指した青年の一人だった。鈴木さんが10代後半でブラジルへの移住を決断してから、運命に導かれるようにして選び取ってきた道には一切の迷いが感じられない。これまでに交流があったお坊さんたちには煙に巻かれてばかりだったが、根気強さと柔軟さが必要とされる農業に従事し、自然を相手にしてきたからか、経験から得られた知恵を備えつつも良い具合に力が抜けていて話がすっと心に入ってくる。鈴木さんのライフヒストリーは、ご自身が執筆されている自伝を通してじきに私たちも読むことができるはずだ。徘徊アカデミアでは、今回から数回に分けて筆者(西)の目を通した鈴木さんの冒険譚を記録するとともに、その人柄と魅力をほんの少しでも伝えられたらと思っている1

ジェットパイロットから農業移民へ

鈴木耕治さんは1940年3月22日、福島県の中央部に位置する安積郡(現在の郡山市片平町)の生まれである。父は家業だった農業を継がず、農業土木の専門家として日本三大疎水の一つとして知られる安積疎水2の管理をしていた。鈴木さんの故郷の話は、幼少期のある鮮明な記憶からはじまった。第二次世界大戦末期、あたりに馬鈴薯の白い花が咲き誇る頃、郡山市内に向かう艦載機が飛来した3。見上げる空を艦載機が埋め尽くし、あたりが薄暗くなるほどだった。後で振り返ってみると、まるで映画のような光景だったという。自宅のある地域は戦禍をまぬかれたとはいえ、郡山は壊滅したと大人たちから聞いた。安達太良山と磐梯山を望む地で、鈴木少年は自然に囲まれて育った。

福島の生家(鈴木さん提供)

ブラジルとの出会いは、中学生の頃のことだ。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、断絶していた日本とブラジルの国交が回復した。同年、戦後初の呼び寄せ移民がブラジルに向かっている。1953年、鈴木さんが中学2年生の頃、戦後第1回目のアマゾン移住者が「さんとす丸」でブラジルに向かった。この第1回移民のなかに、トメアスーに移住した鈴木さんの叔母がいた。鈴木さんは、叔母を見送るため父親と列車に乗って横浜に向かった。見たこともない巨大な船、海の向こうにはどのような世界があるのだろうと胸が高鳴ったという。とくに鈴木少年の心をとらえたのは、警察音楽隊の奏でる「蛍の光」が鳴り響くなかで、船上の旅立つ人と陸の見送る人が色とりどりの紙テープを握りあって別れを惜しむ姿だった。岸壁を離れた船が見えなくなるまで見送った。

鈴木さんは、現在も県内偏差値1位を誇る進学校である安積高校に進学した。同級生が大学進学について悩みはじめる頃、鈴木さんのなかである思いが湧き上がっていた。大学を出て、サラリーマンになってどうするのだという思いだ。その時にたまたま見かけたのが、航空自衛隊のジェットパイロット募集の知らせだった。空を埋め尽くす艦載機の記憶と、故郷を破壊された悔しさがよみがえった。ジェットパイロットになる決意をした矢先、教員に呼び出されて行った検査の結果、たとえ矯正したとしてもパイロットになることはできないほどの近視であることが判明した。ジェットパイロットになる目標が絶たれた鈴木少年は、ブラジル移住を決意することになる。

ブラジルへの移住

当時ブラジルへの農業移民を取りまとめていたのは、県庁の海外移住課だった。鈴木さんは農家の次男坊とはいえ、農業経験者ではなかったために応募資格がなかった。これから農業高校に進学するのも気が進まないと考えていたところ、父親の知人のつてをたよって福島県の農業試験場につながった。各県の農業試験場には、それぞれの土地に適した作物の改良や新しい技術の開発だけでなく、農業普及指導員を育成する課程があった。農業器具を扱う部署で耕運機の試験といった仕事を手伝いつつ、農業普及指導員の講座で学んだ。2年の課程のうち1年半を経たころ、場長からブラジル行きのお墨付きを得た。

ブラジルに発つ前、鈴木さんが農業試験場に挨拶をしにいくと、場長はアナウンスをかけて職員全員を招集した。職員が総出で見送るなか、場長みずから車で駅まで送ってくれた。農業の本やアルバムを入れた桐の茶箱と単身者に持ち出しが許されていた外貨50ドル4を抱えて、「ぶらじる丸」で一路アマゾン川河口に位置する都市ベレンに向かった。1960年2月4日に横浜を出港、太平洋を横断しパナマ運河を経てベレンに向かう航海の途中、今上天皇(徳仁)生誕の報が入った。2月23日、メキシコ沖を運行中の移民船では、皇太子(明仁)の子息の生誕を祝って盛大な馳走がふるまわれたという。ベレンに着いたのはちょうど1か月後の3月4日のことだった。

ぶらじる丸の甲板で(鈴木さん提供)

ベレンの港は水深が浅く、大型船は接岸できなかった。鈴木さんがまず驚いたのは、川の真ん中に停泊した移民船に、トメアスーの農業組合が所有する小さな船が横付けしてきたことだった。当時は日系人であれば、荷物を確認されることもなくフリーパスだったそうだ。鈴木さんをさらに驚かせたのは、トメアスーの波止場に迎えにきたトラックだった。故郷の福島でも見かけることがなかった大きなトラックで、どれだけこの地が豊かであるか思い知らされたという。組合長から紹介状をもらっていた鈴木さんは、戦前から日本人植民地の基盤ができていたトメアスーに移住することができた。しかし家族で移住した移民のなかには、戦前からあった植民地ではなく、緑の地獄と呼ばれる農業に適さない土地に入植していった人びともいた。鈴木さんは叔母のところに落ち着き、働き始めた。1年ほどたった頃、叔母一家がマラリアにやられ、首都ブラジリアに移住していった。鈴木さんは、ちょうど働き手を求めていた同郷の菅野弥七さんのピメンタ(胡椒)農園で働きはじめた(次回に続く)。

  1. 前回の西の訪問記で予告していたアマゾンの鈴木さんのライフヒストリーは、2024年8月のトメアスー訪問時に行った聞き取りを中心に2025年2月に追加で事実確認を行って構成した。黄昏時のトメアスー、ビールを片手に色々と聞かせていただいたお話は、心にしっかり刻み込まれている。
  2. 水利が悪かった郡山の安積原野に猪苗代湖からの水を引いた明治時代の大事業。明治政府のもとで働いていたオランダ人技術者ファン・ドールンの調査の結果、安積疏水の開削が決まり、1879年に始まった国直轄の農業水利事業の第一号だった。日本三大疎水とされているのは安積疎水に加え、琵琶湖疏水(滋賀県・京都府)と那須疏水(栃木県)である。
  3. 1945年4月12日を皮切りに、7月29日(駅前周辺、日東紡福久山工場、中島航空機会社付近:現在のパラマウント工場)8月8、9日(金屋の海軍航空隊)の計4 回の空襲を受けている(「平成13・14年度版 ふるさと郡山の歴史 」参照)。艦載機による銃撃については、7月10日にグラマンF6Fヘルキャットが郡山に飛来したという記録がある(第252海軍航空隊戦闘詳報(郡山基地)第1号昭和20年7月15日参照)。馬鈴薯の花が咲くころに飛来したのは、もしかしたらB29爆撃機だったかもしれない。
  4. 当時は1ドル360円、大卒の初任給が4000円~5000円だった。およそ3か月分の生活費にあたるお金を持っていったことになる。賭け麻雀とビールで、船を降りる頃には手元に残ったのは30ドルだったそうだ。30日間の船旅の費用は当初10年払いで払う予定だったが、移住から7年目くらいで日本政府が支払ってくれたため自分で支払わなくて済んだという。

コメントを残す