ブラジル

鈴木農園の創設とピメンタ危機:アマゾンの鈴木さん(2)

アマゾンの日本人社会を動かしてきたのは、ピメンタ(胡椒)価格である1。トメアスーの胡椒はおもに北米、ヨーロッパに輸出されており、ニューヨーク、アルゼンチン、ロッテルダムの相場に影響を受けてきた。鈴木さんいわく、香辛料の値段は10年に1回しか上がらず、大変ではあるが地道にやっていると破産もしない。農業は好きでないとできないともいう。胡椒価格は、戦争や動乱にも左右される。1950年代のブラジルのピメンタブームは、インドネシアにおける独立戦争とそれに伴う生産量の低下が関係していたといわれる。戦争中の日伯国交断絶の苦難を経て、戦後のコショウの国際価格の急騰でトメアスーにはピメンタ長者が出現した。ブラジルを終の棲家に定め、根付いていった日本人が求めたのが宗教だった。それが浄土真宗西本願寺派門主・大谷光照(勝如上人)の戦後初の南米巡教(1954年)でのトメアスー訪問につながったといえる。しかし胡椒価格は1966年から低落をはじめ、入植者の営農に打撃を与えていった。

鈴木さんが1965年に独立してから、トメアスー総合農業協同組合2の理事としてトメアスーを支えてきた半生は、まるで何かに導かれているようだ。一見すると悲劇に思えたことは、かならず次の時代の布石になっている。トメアスーの組合は、アマゾン地域で唯一、現在まで生き残ることができた組合である。鈴木さんを含む理事が問題を冷徹に分析し、必要な解決策を見出し、それを実現するための懸命な努力があった故のことだ。鈴木さん自身はというと、努力なんてほんの少し、日本の皆さんの税金やさまざまな人からの助けがあったからこそだという。組合再生の軌跡は次回に譲り、今回はまず1960年代のトメアスーの様子とピメンタブームの終焉について記録をまとめたい。

トメアスー総合農業協同組合(CAMTA:Cooperativa Agricola Mista de Tome-Acu)のウェブサイト

結婚と独立

ピメンタブームが続く1960年代前半、鈴木さんのような単身青年移住者は大いに歓迎された。戦前に350家族ほどがトメアスーに移住したものの、多くが退耕しブラジル各地に散らばっていった。戦後トメアスーに残っていたのは46家族に過ぎなかった。新しい血を入れるという意味においても、単身青年が喜ばれたというわけだ。単身女性もいたが、鈴木さんたちのように農園主を目指してというよりかは、初めから花嫁として移住していた3

ところで、ブラジルの日系社会には、日本ではあまり馴染みのない用語法がある。「植民地」と「パトロン」という言葉だ。植民地といえば「ブラジルはポルトガルの植民地だった」という使い方をよくするが、移民の文脈では日本人が本国とは違うところに移住して開拓した土地を指して使われることが多い。パトロンとは、戦前に移住した人々のうち戦後の移住者を世話し、胡椒の栽培方法を教えると同時に自身の農地の管理をさせる者という意味で使われる。同胞の後継者養成という意味合いが強くあったので、戦後新しい入植者が来なくなるとパトロンと呼ばれる人もいなくなっていった。戦後の移住者はパトロンのもとで数年働き、耕地(戦前に退耕した家族が残していった土地)に入るというルートで独立していった。

胡椒の収穫が終わった10月から11月にかけて、トメアスーは当時7チームあった野球の試合や演劇、ダンスパーティーで賑わった。ダンスパーティーは、独身男女の出会いの場としても機能していた。パトロンの娘の15歳を祝うパーティー(ブラジルでは今でも女の子が15歳になったら盛大にお祝いする習慣がある)など特別な時には生バンドが呼ばれ、冷たいビールやウイスキーがふるまわれた。青年たちは、炭火アイロンとコテで時間をかけて丁寧に皺を伸ばした一張羅を着て、カヘッタと呼ばれる荷車をつけたトラクターに乗り、ダンスパーティーに向かったという。

鈴木さんは、福島・二本松出身のパトロンである菅野さんの農園で5年間働いたのち、1965年のピメンタ収穫後にトメアスー出身の日本人女性と結婚、独立した4。菅野さんの資金援助を受け、胡椒園がすでにあった土地を買うことができた。部落の人びとの手伝いで、あっという間に縦6メートル横12メートルの家が建った。鈴木さんの歴史と思い出が詰まったマイホームは、3キロほど離れたところにある現在の鈴木農園に保存されている。

1973年頃、新しいマイホームの前で(鈴木さん提供)

根腐れ病の蔓延

1000本の胡椒園から始まった鈴木さんの農園は、1970年には7トンの収穫があり、軌道に乗りはじめた。当時は地権書さえあれば、バンコドブラジル(ブラジル銀行)がお金を貸してくれたこともあり、農園の規模を拡大し融資でトラクターを購入することもできた。しかし1967年から、不穏な動きが出はじめる。胡椒の根腐れ病がみられるようになったのだ。ブラジル政府が適切な調査をすることはなく、病理学をおさめた宇都宮大学出身の研究者が病害対策を指導した。土地はたくさんあったため、植え変えて対策を試みたものの、次々と増殖するバクテリアを前になすすべはなかった。

トメアスーが大雨にみまわれた1974年、ついに大量の胡椒が被害を受けた5。戦後のピメンタブームが終わり、トメアスー外への移住が増えた。ピメンタ栽培の経験がある日系人のなかで資金力がある者は、水はけの良いところで、かつ労働者を確保できる町の近くに耕地を買って移住していった。トメアスーの農家数が減った一方で、日系の農業者が散らばっていったことで、パラー州全体としては胡椒の生産量が増えた。この頃、組合の定款が変更され、パラー州全体の農家がトメアスーの組合に参加できるようになった6

胡椒を増産するために1962年にJICAの肝いりでできたトメアスー第2植民地(25000町歩)、さらに1974年にはパラー州政府によって与えられた11万2000町歩の土地にトメアスー第3植民地(アイウアスー)が造成された7。その後、第1植民地の北に隣接する15000町歩がパラー州から与えられ、千葉三郎8植民地が作られている。第2植民地はトメアスーから20キロほど、第3植民地は70キロほど離れたところに位置していた。第3植民地には5年ほど通勤農業をしたが、継続は難しかった。この時、自宅の周辺が荒れ地にならないように組合が推奨したのがカカオ栽培であった。この時鈴木さんは、胡椒だけを追求して農地を変えていったとしても、百姓は農業に集中することができないと気付いたという。しだいに人びとはトメアスーに戻ってくるようになり、第3植民地と千葉三郎植民地の土地のほとんどは現在ブラジル人の手に渡っている。

日本人は、生きるための新天地を求めて農業者としてブラジルに移住し、鈴木さんの言葉を借りると「土を踏んで伸びてきた」という意識がある。こうした農業者の生き様を通して、ブラジル人の間でも日本人は勤勉だというイメージが広まり、尊敬の念が生まれたのではないかと鈴木さんはいう。ピメンタの危機が多くの農業者に打撃を与えた一方で、それが後に世界的に注目されるようになる新たな試みを生み出すことになった(次回に続く)。

  1. 胡椒価格の変動要因については、以下の報告書を参考にした。海外移住事業団(1968)「胡椒価格の変動とその要因並びに今後の問題点:胡椒価格篇」『市場関係情報』第8号
  2. トメアスーの農業協同組合は、日本人の移住開始から2年後の1931年に設立された野菜組合を起源としており、1949年に現在のトメアスー総合農業協同組合(CAMTA:Cooperativa Agricola Mista de Tome-Acu)に改称された。
  3. 写真花嫁とも呼ばれた。『サンパウロ新聞』1959年4月25日付の記事には、移民花嫁と集団披露宴のニュースが記載されている。ブラジル移民の100年のウェブサイトには以下のような解説がのっている。「花嫁は日本で入籍して、妻を呼寄せるという形式で渡航した。交際は写真と文通によるため、ブラジルの港で花婿に会って幻滅を感ずるということは、間々あったという。」https://www.ndl.go.jp/brasil/text/t100.html トメアスーでは、鈴木さんが覚えている限りでは写真花嫁のケースは3~4件しかなかった。
  4. 鈴木さんが恥ずかしそうに話ししてくれたところによると、菅野さんの西側に住んでいたファミリーに嫁いだ姉を訪ねて来ていた女性が、後に奥さんとなる智子さんであった。当時鈴木さんは、移住者によって結成されたキングローズ楽団でトランペットをやらないかといわれ、菅野さんの家に週一回練習しに行っていた。トランペットなど故郷の郡山でも見たことはなく、下手ながら懸命に練習をしていたという。時折、智子さんのことを見かけると、こんな田舎にすらっと背が高く、足がきれいな女性がいるのだなと感心したと述懐する。確かに背が高くて、スレンダーである。その智子さんとたまたまダンスパーティーで一緒になった時、一言目に「トランペットすごいですね」と言われた。その時、何がすごいですねだと思ったという。その後、ダンスパーティーで交際を重ね、時には智子さんの実家トメアスーの川の近くでもデートした。2年の交際を経て、菅野さんの後押しを受けて結婚したという。
  5. 胡椒は木の割合に対して実が重く、根も浅いので酸素を必要とする。フザリウム菌と呼ばれるバクテリアが増殖すると、導管が詰まり酸素が取り込めなくなるうえ、根の部分に水がたまると、あっという間に枯れてしまう。1974年の雨で土中の水分量が100パーセントとなり、文字通り大量に窒息死してしまった。鈴木さんの農園では15トン収穫できていたのが、3トンしかとれなかったという。
  6. 鈴木さんによると、ブラジルで初めて胡椒を世界に輸出したのが、トメアスーの組合だったという。トメアスーでは胡椒の輸出を組合が直接行っており、国際相場を用いているので買いたたかれることもなかった。
  7. 第3植民地には、およそ200家族が申し込んだという。1ヘクタールが約1町歩で、野球場くらいの広さである。ブラジルは何事においてもスケールが違っていて頭が追い付かない。
  8. 戦前の開拓事業を担った南米拓殖会社(鐘紡社長の武藤山治が設立)に取締役として入社し、アマゾン開拓事業に従事した功労者で、国会議員や宮城県知事、東京農業大学学長なども務めた。彼の功績を称え、トメアスー中心の通りにはチバサブローの名がつけられている。

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