タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

熱帯の洗礼

【マラリア】マラリアは、熱帯地方の原虫感染症です。原虫を媒介するハマダラカによって感染します。媒介する蚊にさされると一定期間の潜伏期間をへて発症します。発症すると悪寒、発熱が起きます。悪性の場合、腎不全などにより死亡するケースもあります。予防ワクチンはないので熱帯など感染する恐れの地域へ行く場合は、蚊に刺されないようにすることが重要です。(ホスピタ「マラリア」)

【デング熱】デング熱とは、蚊によって媒介される熱帯病の一種です。主な症状は、40度以上の高熱、筋肉や関節の痛み、発疹などです。このウイルスは4種類の型を持ち、1度感染したウイルスに感染した人が、2度目に違う型のウイルスに感染した場合、デング出血熱に発展し生命の危険をもたらす可能性もあります。現在認可されているワクチンがない為、ウイルスを持つ蚊にさされないようにすることが、一番の予防策です。(ホスピタ「デング熱」)

常夏の地域で暮らしていると、一度はかかる可能性があるのが熱帯病だ。タイ南部の国境地域で暮らし始めて4か月が経った頃、私はその洗礼を受けることになった。ある日、私は一抹の不安を覚えた。記録によると、2015年8月29日のことだ。1週間ほどバンコクやハジャイに行って、ナラーティワートに戻った日だった。滞在していた家の4歳の子供が、デング熱にかかって治ったばかりだという。私は、キンチョーの蚊取り線香ラベンダーの香りを焚きしめ、いつもより念入りに虫よけスプレーをふりかけて過ごした(しばらくは)。

およそ1週間後の深夜2時頃、骨の髄が痛むような感覚と、寒さに震えあがった。熱帯地域であっても、夜は気温が下がる。扇風機の風で身体が冷えたのだろうと、半分夢のなかにいた私は結論づけた。翌日起き上がった瞬間、これはあかんやつやと確信した。頭が割れそうに痛く、もげるならもいでしまいたいほどだった。熱が出たり、下がったりした。それでも食事はとれていたし、日常生活は続けられた。パッターニーにいた友達と電話で話していると、マラリアかもしれないという。退官した修士時代の恩師(1980年代にタイ南部国境県で調査をした珍しい日本人)の顔が浮かんだ。先生は私たちに、僕はマラリアにかかって死にかけたんや、とよく話していた。

タイのキンチョー蚊取り線香。日本でアロマタイプが発売される随分前から、タイではバラやラベンダーの香りが売られていた気がする。

マラリア疑惑

電話を切るやマラリアになったかもしれないと大騒ぎし、家の人に近所の診療所に連れて行ってもらうことになった。当時お世話になっていた家は、アムプー(郡)と呼ばれるチャンワット(県)の下の行政区の中心部にあった。鉄道駅も近く、常設の市場もあって、そこそこ町だ。アムプーには小規模な総合病院もあったが、よほどの病気でなければ、一般の人が行くのはクリニックと呼ばれる診療所だ。もちろん診察代も薬代も、病院と比べると手ごろである。マラリア疑惑がぬぐえなかった自分としては、一刻も早く病院の方に担ぎ込んでほしい気持ちでいっぱいだったが、遠慮して言うことができなかった。

診療所はごく普通の平屋で、勝手を知らなければ素通りしてしまいそうな質素なたたずまいだった。扉はなく(ジャバラ式のシャッターがあるだけ)、道路に面した部分は全面オープンエアになっている。入口から奥に向かって、古びた椅子が並べてあった。入口付近に机が置いてあり、そこで受付をする。診療所はワンストップで、診察と薬の処方までしてくれる仕組みだ。

9月8日の夕方5時、町の診療所での診察が始まる時間には、すでに体調が悪い人や軽い怪我をした人たちの列ができていた。診療所では、まず受付のおばさんが問診をし、名前、体重、血圧、症状を紙の切れ端に記入した。いまにも倒れそうなおじいさんが、点滴スタンドを杖代わりにして目の前を通り過ぎて行く。しわしわの腕に突き刺さった針が、痛々しかった。1時間ほどして名前を呼ばれ、奥に座っている医師の元に向かった。中年の、貫禄のある女医さんだった。熱が出たり下がったりする、頭も痛いし、身体も痛い、マラリアかもしれないと訴えた。お医者さんは呆れた顔をしながら、絶対にマラリアではないと一蹴、ただの風邪だと告げた。頭痛薬を処方されて帰宅した時は、助かったのか何なのかわからない気持ちだった。

血を運ぶ

その後、症状がいっこうに治まらず、電車とバスを乗り継いでパッターニーに移動することにした。パッターニーの公立病院に行ったのは、9月12日、土曜日のことだった。血液、X線、尿検査を一通り終えたのち医師の口から出たのが、カイ・ルアット・オーク(直訳すると血が出る熱)だった。デング熱のタイ語だ。明日また来るように言われ、頭痛薬とかゆみ止めが処方された。そこでようやく、家の子供がデング熱にかかっていたという話を思い出したのだった。

パッターニーで借りていた下宿に戻って、ひたすらデング熱情報を調べた。とりあえず、死ぬ病気ではなさそうだ。そうしているうちに、赤い斑点が全身に広がっていた。とくに手のひらと足の裏が熱く、小さい虫が皮膚の下でうごめいているような、気持ち悪いかゆみが続いた。一晩中寝ることができず、自分は本当に死なないのだろうかとビビったことを覚えている。

翌日の日曜日、ふたたび血液検査に向かった。日曜日の病院は、閑散としていた。採血管2本分の血を抜いた看護師は、それをチャック付きポリ袋に入れる。看護師は、何かを言いながら袋を手渡した。私は、何を言われているのか理解ができなかった。何度聞いても、別棟にある検査場に持っていくようにと言っている。自分の血を自分で運ぶ日が来るとは夢にも思わなかった。カウンターで血液を渡すと、明日、もう一度病院に来るよう言われた。下宿に帰って、手の平や足の裏にかゆみ止めをすり込み、頭痛薬を飲み、力を使い果たして寝ることができる時を待った。

血を入れ替える

月曜日の病院は、うってかわって人で溢れかえっていた。朝の6時から4時間近く待っているとこぼしている人もいた。病院で待つあいだ、デング熱の治療法として血を全部入れ替える場合があるのだと、付き添いで来てくれていた友人が真顔で言った。私はそのようなことは一切聞いたことがないが、熱帯地域で生まれ育った人がそういうのだからそうなのかもしれない。血を入れ替えるのだけはごめんだ、入れ替えた方が死にそうだ。血を入れ替えたら性格が変わったりするのかな、などくだらないことを考え続けた。座る場所さえない病院で、3時間という永遠のような時間を過ごし、あきらめて帰ろうとした時に看護師に呼ばれた。

この日、血圧が低すぎて測れないというトラブルにみまわれる。看護師は動揺して、私の手を引き病院内にあるすべての血圧計をまわった。2ラウンド目で最低を少し超える血圧を測ることに成功し、医師の元に通された。お医者さん曰く、前日の血液検査の結果、白血球と血小板の数値は低かったが問題はなさそうということだった。ただ、ふたたびデング熱に感染したときには、症状が重篤化する可能性が高いらしい。私は血を入れ替えなくて済んだと脱力し、その足で友達と焼肉に向かった。身体も痛いしお肌に赤いぶつぶつが広がっていたけれど、散々血を入れ替える話をしたせいか、その時の私たちは栄養をつけて血を作るべきだと強く思ったのだった。2日ほどで症状は和らいでいった。結局、全部で10日ほど苦しんだことになる。いまだに、いつ完治したのかはよくわからないままだ。

後に、医者をしている知人に聞いたところ、デング熱で輸血をすることはあるかもしれないが、血を入れ替えることはないということだった。いずれにしても、デング熱は、対症療法しかないので、どうしようもなかったのは事実だ。痛みには鎮痛剤、かゆみにはかゆみ止め、それしかない。ただ、デング熱の場合、イブプロフェンや、ロキソニン、アスピリンといった鎮痛剤は、出血を促す可能性があり飲んではいけない。痛み止めを自分で買って使う場合は、パラセタモルを購入して服用すること。

日本では大騒ぎになるデング熱だが、タイでは血が出る熱という恐ろしい名前をしている割には、デング熱と聞いても周りの人たちは顔色ひとつ変えなかった。それくらい、身近な病気だ。しかし、ただただ辛かった。調査をする人間にとって、病気は勲章、箔がつくという様子で話す先輩方がいたけれど、そんな箔はこれからもできれば欲しくない。蚊に十分気を付けることはもちろんだが、海外にいる時に不調を感じたら、変な遠慮をせずに迅速に都市部に移動する、ということをこの時心に決めた。

(文:西 直美)

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