フィールドワーク四方山話, ミャンマー

“アンティーパレー”

懐かしのフレーダン。フレーダンはヤンゴンの原宿の異名をとる、ヤンゴン屈指の繁華街である。13年ほど前、ヤンゴン外大に留学していたときにアパートを借りて住んでいたエリアだ。そのあともヤンゴンに行けばかならず足を運んで、顔なじみに挨拶するのが決まりとなっていた。最後に訪れたのは5年前だろうか。2024年3月頭に久しぶりに訪れたフレーダンは、私がよく知っているフレーダンのままだった。狭い道に露店が連なり、大勢の人でごった返している。これこれ。これがフレーダン。あまりの変わらなさに、私はニヤけた。

フレーダンのある通り。けっこうな往来がある。
夜はもっと人通りが増える。
 (2024年3月、ヤンゴン、撮影:鈴木一絵さん)

貸本屋に行ってみる

私にはフレーダンで会わないといけない人がいた。留学中に私がもっともお世話になった貸本屋店主、の家族である。貸本屋店主は2022年11月15日に亡くなった。47歳だった。彼――生物学的には女性だが、身なりも心も男として生きていたので「彼」とする――は以前からアルコール依存症気味で、小食だった。頑固なところがあったので、周囲の人の心配をよそに、その食生活を変えようとせず、私も彼の健康状態をずっと憂いていた。

彼との関係は、私の帰国後は、あまり良いものとは言えなかった。彼には長年連れ添った彼女がいたが、その彼女とちょっとした誤解が元で別れてしまっていた。私が彼女のほうの肩を持ってしまったことから、彼とは急速に疎遠になり、この出来事がきっかけで、彼はますますアルコールに溺れるようになった。彼が酒浸りになってしまったことの原因の一端を自分が担っているのではという気持ちがずっと心から消えなかった。そんななかでの訃報であった。疎遠になってしまったままでの寂しいお別れになった。もっと優しくしてあげればよかったと思っても、その相手はもういない。

彼がいつも店番をしていた貸本屋に行ってみる。貸本屋への行き方は体が勝手に覚えている。13年前、私が毎日通ってきた道だ。貸本屋は彼の家族が所有する3階建ての建物の1階にあった。2階は彼ら家族の生活スペースで、ここに行けば彼の親御さんに会えるはずだ。いざその場所に着いてみると、かつて貸本屋だった場所は薬局に変わっていた。何も驚くことはなく、きっともう何年も前に貸本屋は廃業していたのではと思う。民政移管後急速にスマートフォンが浸透してから、みなスマホでなんでも済ますようになり、貸本屋はほぼ完全に淘汰されていた。薬局を覗くと、よく見知った顔が並んでいて、一気に安心した。亡くなった彼のお母さんと、お姉さんだ。5年前に会ったときと何ら変わりない、ここだけ時が止まったのではないかと思うぐらいだった。再会の挨拶をして、この5年のあいだに何があったかを聞く。

ウーエーとグーグー

留学していたころ、一番お世話になったのは亡くなった彼だったが、同時に彼の家族とも親しくなって、大変お世話になった。とくに彼のお姉さん家族とは思い出があり、そのほとんどが、お姉さんの子供のグーグー(娘)とウーエー(息子)にまつわるものだった。グーグーにウーエー1。響きからしてかわいいこの二人、13年前は本当に小さくて愛らしかった。

ウーエーは当時5歳。声変わりしていない高い声で私のことを「アンティーパレー(パレーおばちゃん)」2と呼んでいた。いつもお父さんとお母さんの周りを走り回る、元気いっぱいの男の子だった。グーグーは当時11歳。小学生だった。白のブラウスに緑のロンヂーという制服姿と、パジャマ姿でうろうろしている姿をよく覚えている。年齢の割には背が低く、いつももじもじしていて、大の偏食でインスタントラーメンとパンばかり食べていた女の子だった。

そんな二人も13年経った今、ウーエーは18歳、グーグーは24歳になっていた。ときの流れの速さにめまいがし、また自分の老いを突き付けられた気がした。あの小さかったウーエーがこんなに立派に成長して…と目頭が熱くなった。色は幼少期より少し黒くなったようだ。背は高くなって、ゆうに私を追い越している。子どものころにはかけていなかった眼鏡をかけている。目が悪いのだろうか。腕や足など見えるところにタトゥーは入っていないようで、妙に(?)安心した。グーグーも24歳で、すっかり大人の女性になっていた。化粧っけはなく、素朴な感じだったが、かつてのもじもじ少女から変わって、受け答えがしっかりしており、その成長ぶりに驚いた。トレードマークのおかっぱ頭も今はロングヘアーになり、やはり眼鏡をかけている。コロナでお父さんを亡くし、二人ともお母さんやおばあさんを安心させたいと勉強をがんばったに違いない。

徴兵制のニュースを受けて

聞けば二人とも数日後にはタイに留学するという。今年2月の徴兵制のニュースを受けてのことだ。男性は18歳から35歳、女性は18歳から27歳が対象で(その後、2月20日に女性は免除されると発表された3)、二人はすぐにヤンゴンにあるタイ大使館に行ったという。毎日長蛇の列ができ、あまりの殺到ぶりに1日400人まで対応とのニュースを聞いていたから、3月上旬にすでにビザと航空券を準備できている二人はかなり幸運な部類に入るだろう。グーグーは元々韓国語を勉強していて、韓国に行きたがっていたが、ビザ取得のハードルが高く諦めたとのことだった。ミャンマーから出たことがない二人。ミャンマーとは比べ物にならない大都会で、どんな人生が待っているのだろう。ちなみにグーグーらの世話をしていた遠縁の親戚の少女4も数年前にタイに働きに行ったとのことだった。数年間住んでいるから多少のタイ語はできるようになっているはずだ。それなら二人にとっては心強い。二人のアンティーとしては、もちろん心配ではあるが、きっと助け合いながらたくましく生き抜いてくれるものと信じている。

  1. どちらの名前も彼らの本名ではない。ミャンマーでは親や周りの大人が小さい子供に本名とは別の愛称をつけて呼びかけることがよくある。
  2. 私のビルマ名。正式には「パレートェーミン」。大阪外大時代にミャンマー人教授から授けてもらった。ミャンマーでは「パレー」と呼ばれている。「パレー」は真珠の意味。
  3. ”徴兵制”発表のミャンマー軍「女性の計画ない」 国内の反発を和らげる狙いか
  4. 彼女とグーグーについては以前「ヤンゴンの子供たち」という記事で書いている。この記事内ではプライバシーを考慮して名前を変えており、親戚の少女をグーグー、実際のグーグーをサンダーとしている。本来、本名を出すかどうかは当事者の確認が必要であろう。今回グーグーについては、あくまでも幼いときの愛称であるという点と、言葉の響きのかわいらしさを伝えたいという思いで、仮名ではなく実際の呼名を用いた。

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