タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

パタニ戦士の歌と謎のインドネシア人シンガー

タイでは、毎朝8時と夕方6時の決まった時間にタイ民族の血と肉の団結を歌う国歌がかかる。ピ・ポ・ピ・ポと時刻を知らせるチャイムが街中に設置されているスピーカーから鳴り響くと、歩いている人のなかには立ち止まる人もいて、はじめてタイに旅行する外国人たちを驚かせてきた。実はこの「儀礼」は1960年代にタイ史上もっとも有名な独裁者でもあるサリット元帥によって導入されたものだ。タイの地方都市の中心部には必ずある時計台や荘厳な市庁舎を作ったのも彼である。亡くなった後、全国から100名以上の”愛人”が彼の財産を求めて寵愛を受けていたと名乗り出るなど数々の逸話が残っていて、サリットは果たして悪い独裁者だったのか、国の開発を進めた良い独裁者だったのか、タイ人のあいだでも評価は分かれている。いずれにせよ、祖国の大地、血と肉、敵、戦いと解放といったモチーフは、人々を団結させることを目的にした歌ではしばしば目に、耳にするものだ。

タイ南部のイスラム地域では、1960年代から祖国パタニ(1909年の国境画定条約でタイの領土に組み込まれた旧パタニ王国の地域)の解放と独立を目指すマレー系武装組織が活動してきた。1990年代後半に沈静化したと思われていた紛争が2004年に再燃・激化し、現在まで続いている。留学先だったクアラルンプールのミュージアム・ギャラリー事情にがっかりしていた原新太郎先生(東京都杉並区出身)は、1999年にタイ国内のマレー語地域パタニに移住したころ、正直「アートスペース」にかんしては砂漠にいるようだと感じたという1。さらに原先生は、紛争が続くなかでアートが生まれてくる余地もないだろうと思っていたと明かしている。2004年の紛争激化から10年以上の月日がたち、パタニのアーティストの活躍がめざましい。とくに2012年にPatani Art Spaceをはじめたソンクラーナカリン大学パッターニー校美術学部のジェアブドッラ・ジェソーホ教授(ジェ先生)のリーダーシップのもとで、マレー文化やパタニ社会の現状をアート作品として形にして、世に訴えようとする若手が続々登場している。

パタニアートスペースはいまや深南部、タイ国内だけでなく、世界中からさまざまな属性の人が集う、文字通りサロンになっている。カフェが併設されていて、ドリンクメニューが充実しているだけでなくタイ料理を中心とした食事メニューもおいしいのでおすすめだ。現代アートの動向についてはパタニ地域の現代アートに初期のころから注目して現地調査もしてきた鈴木一絵さん(SEASUN)やミャンマー、パタニの抵抗のアートについて研究されているキュレーターの井原田はるかさんの成果を待ちたいところである。私が今回紹介してみたいのは、パタニの闘士のあいだで話題になっていたらしい歌についてだ。

血と肉と祖国

特定の祖国とつながりのない政治共同体としてのネイションは可能なのかもしれないけれど、どうしてもネイションの想像のなかには領土や国家が含まれているように思われて仕方がない。こうしたモチーフがふんだんにちりばめられてきたのが、パタニの闘争でもあった。もっとも良く知られている分離独立派組織の一つが、1960年代から活動してきたパタニ民族革命戦線(BRN)である。ビーアールエヌ、わかる人には、「ビー」とだけ言っても通じることがある。

私がBRNの設立の地として知られるルーソに、細いつてを頼って飛び込んだのは2015年のことだ。何ひとつ研究上の進展がない拷問のような数か月を経て、さらに田舎の村に引っ込んで生活をしはじめた。そのころ覚えたマレー語3点セットが「アガマ、バンサ、タナアイル(宗教、民族、祖国)」だった。もちろん普段の会話でその辺の人たちが「おはよう、今日もバンサとタナアイルのために励みましょう」みたいな会話をしているわけではない。私がナショナリズム運動のことに関心があって、聞きまくっていたせいだ。「BRNの50年計画」なるプランについても聞くことがあって、パタニ民族としての誇りを維持するためのさまざまな試みが、とりわけモスク付属学校を通してなされてきたという。

現地でよく知られている歌のなかに、アユハイ2というものがあった。マレー語では、古風な感じのする感嘆や呼びかけを意味する言葉だそうだ。私がはじめて聞いたのは2015年、パッターニー県の海辺にあるコテージで開かれたPerMAS(2021年解散)という学生組織の新入生歓迎イベントだった。ちなみにパルマスは、長らくBRNの政治部門だと当局ににらまれてきた組織でもある。アユハイは、パタニ民族の青年と乙女に向けてアガマ(宗教)とバンサ(民族)を守るために、革命の旗を掲げ、立ち上がり続けることを鼓舞する内容で、神が我々とともにあると結ばれている。ルーソでは、アユハイは宗教の歌だという先生もいて、若者たちはこの歌を聞き、ともに歌いながら、パタニ民族の受けてきた苦難に思いを寄せていた。

2015年というと、それほど昔ではない。パルマスの学生たちに少し会っただけで、当局から安全保障上の脅威だといわれるほど、その当時パタニという言葉さえ堂々と言えない雰囲気があった。サトゥ・パタニ(一つのパタニ)、メルデカ(独立)、といった言葉を公の場でいうことはできなかったし、パルマスの青年たちが好んで使っていた人差し指を立てるポーズ(サトゥ・パタニを意味)は、それだけで立派な抵抗のポーズだった。

ただ平穏な暮らしを求める人たちにとっては、たとえ心の奥底で民族の誇りを抱いていたとしても、その歴史を語ったり歌ったりすることは、厄介ごとでしかなかった。ある知人は、キャンプに行ったときに近くにいた若者たちがアユハイを歌いだしたので、ジューウェー(戦士)の歌だと恐ろしくなって、その場から慌てて逃げたといっていたほどだ。

パタニへの愛が止まらない

コロナで渡航ができなくなったころだった。友達はパタニのことを恋しく思っているであろう私に、ジューウェーたちの心をわしづかみにしているらしい歌手のことを教えてくれた。ちょっとダサめのポップ・ロックや歌謡曲風のソングたち、なんとなく癖になるテイストである。独特の鼻にかかった高いような渋いような声も魅力的ではあるが、声やメロディというよりかは、歌詞でジューウェーの心をつかんでいるようだ。初めて聞いたとき、この子は捕まらないのだろうかと心配になった。しかし、その心配は無用だったようだ。なぜなら彼は、インドネシア人だったのだ。

パタニの闘争を歌で支えるファイ、唱歌集のタイトル(Youtubeチャンネルより)

ファイ・ケンチュルットというインドネシア人シンガーは、パタニ・マレー民族の苦難を描いた歌をSNSを通して世に出してきた。彼自身TikTokなどを通して、パタニやケランタン(北部マレーシア)にルーツはないこと、純粋にパタニの歴史を知って衝撃を受け、自分ができること、歌で戦いたいと思ったと述べている。パタニの歌手とコラボや曲のカバーもしていて、Youtube登録者数は2024年1月の時点で28.5万人にのぼっている。数年前に初めて見たときは(それでもずいぶん多いと思ったけれど)3万人くらいだった。ちなみに、可憐な見た目で皮肉屋なところがムーミン谷のリトルミィを彷彿とさせるインドネシア人の友達にファイの話をしたところ、ケンチュルットだって?歯磨き粉がぶちゅっと出てるみたいなふざけた名前だな、やばい奴に違いないよ、という。やばいかどうかともかく、ファイが歌っている姿は別にふざけているようにはみえないので、ぜひ見てほしい。

ファイは、2023年には先述のアユハイもカバーし、ポップを装いつつ勇ましいMVを世に送り出している。ここで使われている映像はおそらく、一昨年から、人々を驚きの渦に巻き込んできたとあるイベントで撮影されたものだろう。2022年パッターニーのビーチリゾート、ワースクリー海岸で開催された「マレー衣装コンテスト」に、深南部各地から数万におよぶマレーの衣装に身を包んだ若者たちが集った。人によってはBRNの50年計画がついに完成しつつあるという感慨を抱かせるほどだった。当局は2022年のイベントの際に、本当に純粋な文化イベントなのだったら喜ばしいことだなどといいつつ、リーダーの一人を捕まえている。2023年に開催されたイベントでは、4万人が集まったともいわれる3。 

ファイがカバーしたアユハイ

ファイの歌で感動することのなかった私だが、彼がカバーしたアユハイの出だしを聞いただけで目頭が熱くなった。パタニの歴史を語ったり、パタニという言葉を使ったり、人差し指を立てたりできなかった頃が嘘のようだ。もはや国も止められない。YouTubeには、ポップな歌にのせて、バンサ、アガマ、パタニと神様への祈りがあふれている。若者たちの間には、こうしたナショナスティックな同年代を冷ややかにみている子たちもたくさんいることは知っている。しかし自由に表現ができるようになったこと、それ自体がとても喜ばしいことだと、私は思っている。

  1. https://prachataienglish.com/node/7605
  2. もしくはアユハイ・ペムダという名でも知られる。アユハイ・ペムダだと、嗚呼青年よ、という感じだろうか。
  3. https://fulcrum.sg/melayu-raya-celebrations-in-thailands-conflict-stricken-deep-south/

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