「中屋さん、あんた中国にいてたよね。どこでも生きていけるよね。」。大学院時代、「中国にいた」、ただそれだけで(研究業績にほぼ関係なく)、とある大学院からインターンシップの希望者がいない中央アジア(キルギスタン)に飛ばされたことがあります。そうですとも。私、中国におりました。それが何か!?
これは、私の名誉と捉えていいのでしょうか。いや、名誉の勲章なのです。色々な中国人や人々に助けられてきました。色々な人に助けられて来たことが、いまや私の勲章、活力となっているのです。
年齢がばれてしまうことを覚悟で申しますと、1990年代後半から2000年代初頭にかけて中国のとある大学に留学していました。私は、未知の中国に留学する娘を前に心配でいっぱい、いっぱいの父親と大ゲンカの末、留学出発の当日、無言の決別をして、中国の大学に行きました。(なぜ中国にあこがれを持ったのかについてはまた今度お話したいと思います。)
こうした経緯から、絶対に親には弱音を吐けない情況でした。しかし、中国に来て間もないころ、中国語の会話能力はゼロの状態で、大変でした。自分の中国語がゼロゆえに過酷な情況に陥ってしまったのです。
変形冷凍水餃子
当時、私の留学先だった北京でさえも、たびたび停電がありました。中国語の授業は、朝(8時!)から午後にかけてあったのですが、授業を受けている最中に、停電しており、また数時間後、電気が復活しているということがよくありました。私が冷凍庫に置いていた冷凍水餃子が、停電のために解凍されていて、常温で保存され、電気が復活した時に、再冷凍されていたのです。停電の知らせがあったようですが、中国語が分からなかったため、いつからいつまで停電か知りませんでした。当時の私は「解凍、そのまま常温で保存、再冷凍されている水餃子」とはつゆしらず、「あれ、ちょっと、水餃子の形が変形してる~(笑)。外国だしこういう変わった味の水餃子かな」ぐらいの感覚で、山もり食べました。
「どっか~ん!!」
次の日、洗礼を受けました。
食中毒です。立ち上がることもできず、這うようにして留学生宿舎を出ました。分厚い日中辞書を片手に、何とか生きなければという思いでした。こういう時は野生のカンが働くもので、「あの変形水餃子や」と確信を得ていました。しかし、もうろうとする意識の中で「生きなければ、これで死んだら親父の勝利や・・。ここで親父に勝利は渡せん」というしょうもない意固地の意識のもと、記憶が途絶えて、宿舎の前で倒れこんでしまったのです。意識不明の状態になりました。
タクシーで病院へ
学内に常駐していたタクシーの運転手が、私の倒れこむ様をたまたま目撃していました。タクシーの運転手は、とっさにこの子はたぶん日本人だから、中日友好病院につれていかなければと思ったようで、タクシーを飛ばして病院に運んでくれました。私は「あれ、なんでタクシーに乗った?これからどこに行くのかなあ」と遠い意識のなかにいました。
歩けないほど衰弱していたので、タクシーの運転手さんがどこかから車いすを用意してくれて、車いすで診察室に入りました。もうろうとする意識の中で辞書を引きながら「水餃子、停電、食中毒」などお医者様に訴えました。しかし、もちろんお医者様は、私の下手な中国語が分かるはずもありません。
お医者様からは、「あなたね、日本から中国に来てストレスがたまっているんですよ。まずストレスを和らげないと」と親身になって、慣れない外国での大変さに同情したお話をして下さり(たぶん、そのようなことを言ってくれていたと思います。)、処方箋をもらいました。私は、車いすに乗ったまま「う~あ・・。す、すい、ぎょ。ぎょうざが・・・・う~あ・・。」と訴えられないまま、不本意ながらもストレス解消の薬(イチョウの葉の薬でした)をもらって帰りました。タクシーの運転手さんは、哀れな日本人だからだと、また病院から宿舎まで連れ戻してくれました。明確に覚えていることは、タクシーの運転手さんは、タクシー代を一切受け取りませんでした。そして、私を宿舎に送り届けてくれて、枕元にミネラルウォーターを置いてくれました。
国際連携プレー
宿舎の硬いベッドに横たわり薬を飲んで様子をみましたが、いっこうによくなりません(あたりまえですが)。薬局に行こうかとも思いましたが、衰弱しきっていて外にも出られず、薬局で病状を説明することはより困難なことでした。そんな宿舎内でふらつく私をみて、アフリカ、アメリカ、韓国、日本などの留学生が、見るに見かねて学校の診療所に連れて行ってくれることになりました。みんなに抱えられての診療所行き、こんな有難くも辛い大名行列、二度とごめんです。診察室では、アフリカ、アメリカ、韓国、日本の留学生が私の言っている中国語や身振り手振りを国際連係プレーで推察し、校医に伝えてくれました。下された診断は、やはり食中毒でした。この国際連係プレーによって、生理食塩水の点滴を3時間ほど打ってもらうことができ、生還を果たしました。
今でも水餃子を見るたびに、中国留学時代に経験したこの食中毒の気持ち悪さがよみがえってきます。しかし、日本にいても、肉体的、精神的につらくなると、なぜか中国の水餃子が食べたくなります。なぜなのでしょう。悪戦苦闘しつつも最もエネルギッシュだった中国留学時代に思いを馳せているからでしょうか。それとも、あの時私を必死になって助けてくれた中国人や留学生を思い出すからでしょうか。水餃子は、中国の全ての思い出を包んでくれているような気がします。ひとくち噛むと名誉の勲章の味がしみ出る、ソウルフードとなっています。
(文:中屋 昌子)
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