タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

コロナ危機と世界の終わり

新型コロナウイルスの影響拡大が話題になり始めた2月11日に日本を出発して、マレーシアとタイ南部国境県での滞在を終え、外出規制や国境封鎖を決める国、自治体が増え始めた3月15日に帰国した。帰国した時に驚いたのは、空港での検疫がいつもとまったく変わらなかったことだ。3月前半のタイでは、日本政府の対応が粗末だと考えられたために、日本人や日本へ行くことが危険視されていた。日本は危ないから、ここにいたらよいと言ってくれる人もいたくらいだ。けれども、日本に戻ってくると今度は海外に行っていた人が危ないといわれ、自主隔離をすることになった。

帰国してすぐに、タイ南部国境県が感染多発地域になった。2月下旬にマレーシアで行われたイスラーム関係のイベント(タブリーギー・ジャマアトの集会)1に参加した人々の集団感染が明らかになったためである。3月18日、マレーシアは国境封鎖を決めた。タイ南部国境県に限らず、コロナの影響で失業し、故郷に戻った人は数え切れない。タイ政府はラオ・マイ・ティンカン(誰も見捨てない、置き去りにしない的な意味)というスローガンの下で、月額5000バーツ(およそ1万7千円)の給付金の支給を決めたが、6月に入ってまだ受け取ることができていない人もいるようだ。コロナ危機の着地点が見えなかった3月から5月にかけて、いつもに増して濃厚に漂っていたのは“世界の終わり”感だった。

5月24日に行われた「歴史的」イード・アル=フィトル(ラマダン明けのお祭りの日)の礼拝の様子(ラインのグループチャットで共有された写真から借用)。2020年は、ソーシャル・ディスタンシングという言葉がタイ語の用語に加わった一年であった。

(実は)常に世界の終わりだった

ムスリムは、世界の終りのことをよく話す。ユダヤ教やキリスト教と同様に、イスラーム教の信仰にも、もともと終末が組み込まれている。ムスリムであれば、よほど変わった人でない限り、来世での永遠の命を天国で得たいと思っているはずだ。天国に行けるかどうか、それが決まるのが終末の日だ。終末の前兆から最後の審判と来世に至るまでの様子は、イスラームの聖典であるクルアーンや預言者の伝承であるハディースから導かれてきた。ただ、終末がいつ来るのかについて預言者ムハンマドは明言していないし、私たち人間には感知できない。ムハンマドの時代にもうすぐやって来ると思われていた(クルアーンには今にも終末が来そうな迫力がある)終末は来ることのないまま、1000年以上の時が刻まれてきたのだ。

世界の終わりは、日常会話でもそこそこ人気の話題だ。2015年にタイ南部国境地域に滞在していたとき、終末が近づいている小さな兆候としてよく聞いたのは、女が男より多くなる(男が女、女が男みたいになるというバージョンもあった)、拝金主義者が増える、貧富の差が拡大する、戦争が増えて人がたくさん死ぬ、火事が起こる、地震が起こる、アザーン(礼拝を呼びかける声)が聞かれなくなる、子供が大人の主人になる(または、言うことを聞かなくなる)などである。これらは、かならずしもクルアーンやハディースに示されていることと一致している訳ではないが、だいたい同じである。

カトゥーイ(タイ語でオカマ)やトムボーイ(タイ語でオナベ)が増えた、シリアで戦争が起こってムスリムがたくさん殺されている、日本では地震と津波が起こった、アマゾンで森が焼けた、モスクから流れるアザーンの音がうるさいからといって禁止する所が出た。彼らにとってみれば、すべてがクルアーンやハディースに示されていた世界の終りの兆候と合致しているように見えるのだ。今回のコロナ危機でも、これが果たして世界の終りの兆候なのか気になっているムスリムがけっこういたし、何より信仰に対する試練だと捉えている人が多かった。

我々はコロナを恐れない

いまや、世界で生じていることは即時に共有される。今回の滞在中にも、ソーシャルメディアやインターネットを通して、どんな田舎のジャングルの中でもコロナに関するあらゆる情報が入っていた。2020年3月上旬、「危ない国」日本から来た私に対してしばしばかけられた言葉は、私たちはコロナを恐れていないというものであった。タイ南部国境県のとある田舎の小さな村で、来年村長選に立候補予定のポスはこのようなことを話してくれた。

一日5回の礼拝の際には、ウドゥをする(ウドゥというのは、礼拝で神と向き合う前に手足や口を清める作業のことであり手順が決まっている)。ウドゥの時は、手は肘のところまで洗うし、顔、耳の後ろ、鼻の穴も洗う、もちろん口もすすぐ。それだけではなくて、コロナにかかるもかからぬも、神がすべてお決めになることだ(ムスリムの信仰の柱の一つが、神によって定められた運命を受け入れることである)。だからといって何もしなくて良いという訳ではなく、神は努力を命じている。専門家から正しい知識を手に入れる、手を洗う、咳などの症状がある場合は外出しない、マスクをするといったマナーは守らなくてはならない。コロナは、神が人間に与えた試練なのだ。

やっぱりコロナは危ない

ポスのような言葉が聞かれたのと同じくらい、ソーシャルメディアでは、ウイルスを恐れる投稿やコメントもたくさんみられた。とくに都市部に在住するムスリムからは、コロナの感染力や感染経路が不明である点について不安を感じるコメントがなされていた。WHOがパンデミック認定を行った2020年3月11日頃から、モスクで集まって礼拝することの危険性が指摘されるようになる。タイのイスラーム行政の長であるチュラーラーチャモントリーは、3月18日に人々に金曜礼拝や集会を控えることを推奨する告示を出した。

コロナ危機の渦中4月6日にムスリムチャンネルで配信された動画。そんな~僕は感染してないよ、という若者にあんた、ほんまにそんな自信たっぷりに言えるんかい?日本ではこういう研究結果が出てるねんで、大変だけど気を付けなあかんで、という形で話が進んでいく。

イスラームでは金曜日に、男性たちはモスクに集まってジュマと呼ばれる礼拝を行うことになっている。金曜礼拝の時には、説教が行われる。タイ南部国境地域では、地元の知識人が話をする場合もあるし、バーボー2と呼ばれる宗教の先生を招いてイスラームに関する講話をしてもらうことも多い。モスクでは、お互いに最近どうしているのかと尋ね合い、お宅の子はいくつになったのか、結婚したのかなどといった話をする。モスク、そして礼拝は、コミュニティの基盤でもある(少なくとも男性にとっては)。

モスクによっては、ウドゥのために蛇口や腰かけるところが備わっているところもある。しかし、蛇口から出てきた水でウドゥをするところばかりではない。滞在していた村のモスクには水が流れる蛇口はなく、井戸水をコンクリートのプールに溜めて利用している(水はいつも淡い緑色をしていて、コロナ騒ぎの前から大丈夫かなと思っていた)。もしも、このプールに菌が入ったら、村の男たちは一網打尽である。村では3月中旬には、家でウドゥを行ってからモスクに行くことが推奨されるようになり、最終的には金曜礼拝が中止された。その後、地域によっては村のイマーム(指導者)3の意向で(信仰があればコロナには負けない、後は神の思し召しという趣旨のことを言って)モスクでの金曜礼拝を続けたところもあったようだが、聞き及ぶ限りでは4月から5月にかけて自粛したところが多かった。

淡い緑色をした水

悪魔と終末の効用

今回の調査も終わりに差し掛かった3月7日、とある知識人の話を聞いていて出てきた話題を最後に紹介したい。それは、ウイルスはシャイターンだという話であった。シャイターンとはアラビア語で悪魔の意味であり、イスラームの教えでは天使とともにアッラーの被造物として存在が認められている。シャイターンはありとあらゆる手段を使って、信仰者を不信仰へ、悪へと導こうとする。疫病はシャイターンの仕業だ、人類は呪いがかけられたのだ、という話なのかと思いきや、そういう訳でもなさそうだった。曰く、ウイルスは神の被造物であり生き物である。人間や社会に悪影響を与え、人々の心を閉ざし、神の教えから遠ざける危険性のあるものだ。そう考えると、ウイルスはシャイターンとして捉えることも可能であるということだった。

外出制限され、国や県、村が閉ざされた。ムスリムか否かにかかわりなく、先が見えないなかで、人々は疑心暗鬼にかられていた。3月下旬、人や車がすっかり消えた街の映像を送ってきたマレーシアの友人は、ゾンビタウンみたいだ、この世の終わりというのは、こういう感じかもしれないと言った。ムスリムの人たちは終末や悪魔の話ばかりしていて、陰謀論が好きな人達なのだ、という風に見えるかもしれない。しかし、そう単純な話でもない。終末の話をしたり、悪魔の話をしたりしながら、神が彼らに与えた試練を思い、自分の身を省み、来世での救いに思いを馳せる。ムスリムの口からよく聞く言葉がある。

私たちがこの世界にいるのは一瞬のことで、最後には豊かな者も貧しい者もみな関係なく審判を受ける。神のことを思い、ただ努力をするだけだ。

(文:西 直美)

  1. タブリーギー・ジャマアトとは北インドを起源とし、国際的なネットワークをもつ組織である。ムハンマドとその教友の時代を理想として、自己改革と宣教を中心にすえた活動を行っている。2020年の2月27日から3月1日にかけてクアラルンプールで行われた集会には、フィリピン、インドネシア、タイからも多数の参加者があった。
  2. バーボーというのは、タイ南部国境県において400年近い歴史があるポーノ(マレーシア語ではポンドック)を主催している人物のことを示す。ポーノとは寄宿型のイスラーム宗教塾のことである。
  3. タイでは行政法上、ひとつのモスクにつき、イマーム、コーテップ、ビラールの3役を登録する必要がある。コーテップは金曜礼拝で説教をする人、ビラールはアザーンをする人だが、かならずしも説教やアザーンをしている訳ではない。イマームの元々の意味は、指導者、礼拝の先導者の意味である。イマームと言う時には、行政上のポストを指していることもあれば、指導者に対する敬称として使われること、また単に礼拝を先導する人、を示すこともある。

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