4月23日、トルコでは子どもの日です。正式には、「国民主権と子どもの日」といいます。
1920年4月23日に第一回大国民議会が開かれたことを記念して、1929年に初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクが、将来の担い手である子どものために祝日として制定しました。第一回大国民議会が開かれて、今年でちょうど100年。オスマン帝国が崩壊し、国家分裂の危機から再生を果たした当時のトルコの人々は、どのような将来を子どもたちに託したかったのでしょう。奇しくも100年後の今年、コロナウイルスの蔓延によって家の中で子供の日を祝うことを余儀なくされたことに様々な思いが胸をよぎります。
子どものおつかい
トルコに暮らしていると、社会の中に子どもが溶け込んでいることを実感します。
トルコの買い物といえば、子どものお使いが思い出されます。アパートの窓から、路地裏で遊んでいる近所の子どもに向かってこのような声が聞かれます。「ムスタファ~(人名)!○×食料品店から小麦粉買ってきておくれ~!おつりはとっといていいよ~」、「砂糖を買ってきてちょうだ~い!」などなど。結構気軽に子どもにお使いを頼みます。自分の子どもにも、近所の子どもにも同じようにお使いを頼みます。お使いを頼む際には、アパートの窓から紐付きのカゴをスルスル~と垂らして、下にいる子どもにお金を渡します。子どもは頼まれた物を買ってきて、カゴに入れます。原始的なエレベーター式買い物です。私もやってみたかったのですが、どうも人前で大きな声を出すことに慣れず、「ム、ムスタファ・・。」と子どもの名前を呼ぶだけでした。子どもムスタファは、「おぉ!どうした?日本人(私のことを日本人と呼んでいました)」と気にかけてくれました。私は「げ、元気?」と声をかけるのが精いっぱいでした。数回試みたものの、当たり障りのないやりとりで終わってしまい、結局、カゴで買い物をする夢は叶いませんでした。ついぞや生粋のトルコ人にはなれませんでした。カゴにヒモをくくりつけて準備万端だったのですが。近所の人たちは、子どもたちのことをたいていどこに住んでいる誰の家の子どもかを把握しています。ゆるい近所の共同体が存在しています。
頼りになる小さな仲間
男の子は、結構、大変で10歳くらいになるとお母さんのバザールでのお買い物にお供します。ちなみにトルコのバザールは、週一回まわってくる青空市場で、新鮮な野菜やチーズ、バター、衣料品、靴、日用品雑貨など何でも売っています。スーパーマーケットの生鮮食品より、バザールで買った方が品物の回転率がよく新鮮で安いともっぱらの評判です。人懐っこいトルコ人は、週一回のバザールで店の店主と会うことを楽しみにしているのかもしれません。トルコ人は、買い物とは、物を買うことも目的のひとつですが、お店の人との交流や信頼関係を築くことを楽しんでいるように思えます。なじみの客になると店の店主は客の好みも把握してくれて、客にとってはそれがひとつの喜びや安心につながっています。バザールではたいてい女性が品定めをし、なじみの店主からトマトやキュウリなどをキロ単位で買います。たいてい男の子はお母さんの買った物を持ちます。また、バザールに子どもが常駐していて、買い物客の荷物持ちをして、ちゃっかりお駄賃を稼ぐ子どももいます。
女の子はどうでしょう。たいてい女の子がお父さんと買い物に行く時は、「お・ね・だ・り」がある時です。トルコのお父さんは、娘を溺愛し、娘の奴隷のように言いなりになることがしばしばです。時々お父さんと娘らしき二人が腕を組んでいる光景を目にします。腕を組んでいるというよりも、買いたいものに向かって娘が父親の腕をひっぱっているように見えます。
さてさて、子どもの活躍ですが、時にはお店に行くと子どもが店番を任されていることもあります。どこに何の商品を置いてあって、それがいくらなのかもたいてい把握しています。買い物に来たお客も、店番をしている子どもを尊重し、品物について聞いたり、言われた値段で買っていきます。時には、お客と店番の子どもとで値段交渉をしていることさえあります。子どもとして扱うのではなく、お店の人として接しています。子どもといえども、大人から頼られる「小さな仲間」といった感じです。
子どもですから、遊びも大いに楽しんでいます。たいていは、道ばたやモスクの広場でサッカーをしたり、自転車に乗ったりしています。ちなみに、トルコでは自転車は子どもの乗り物、もしくはスポーツをする人の乗り物としてみなされています。ママチャリは存在しません。本来でしたら、この季節は、子どもにとって待ち遠しい季節です。あと少ししたら夏休みに入るからです。トルコの学校は、夏休みが6月頃から始まり約3カ月あります。
夏休みの過ごし方
トルコの子どもは夏休みをどうやって過ごすのでしょう。日中は暑いので家で休み、夕ご飯が終わったあとから夜の11時頃まで道ばたのあちこちで子どもの声が聞こえます。道ばたサッカーの対戦が始まります。日本では子どもは寝る時間とされている時間であっても、大人たちも窓から子どものサッカーを眺めて楽しんでいて、まるで自分が監督の気分で、指図をしている大人もいます。大人も子どもも真夜中のサッカーに必死です。日中より、涼しい夜の方がみんな活発化します。
また、サッカーの他には、夜、公園に行くとアイスクリーム売りが待っています。家族で夜中にアイスクリームをほおばっている光景を目にします。アイスクリームの種類も、ピスタチオ、桑の実など日本ではあまりお見掛けしないメニューも豊富です。アイスクリームは、ひと玉、ふた玉という売り方をするのですが、たいてい2玉、3玉を一人でほおばっています。
「なんと教育に悪い!退廃的!」と思う方がいらっしゃるかもしれません。
そこは、バランスがとれているのです。約3カ月もの夏休みの間、子どもたちはただ、遊びやお手伝いに費やしているわけではありません。任意ですが、モスクに行ってクルアーン学習にも参加しています。イスラム教徒として、倫理的な事柄も学びます。子どもという枠組みではなく、イスラム教徒の一員として、社会への参加が始まっているのです。政教分離の国とはいえども、クルアーンを学ぶために、義務教育期間中であっても学校を休学することも容認されています。実際に、私の友人もクルアーンを学ぶために1年間中学校を休んだそうです。世俗的な教育と宗教的な学びが並存しています。
すべての人への激励
子どもを育くむということは、社会の中で子どもをいかに受容するのか、次世代にいかに継承するのかということに繋がっているのかもしれません。
2020年4月23日、新型コロナウイルスの影響により例年の盛大なお祝いはできませんでした。しかし、このような情況にあってもトルコでは夜の8時に国歌を歌い、子どもの日をお祝いしました。この歌声は、子どもだけではなく、社会で子どもを育くんでいこうという共通認識の再確認が社会全体で行われたのだと感じられます。そして、子どもを育くもうとする地域社会のすべての人を互いに激励する歌であっただろうと認識します。子どもの親だけではなく、子どもを育む地域全体の人々への激励です。それが、国民主権と子どもの日の100年目のお祝いとなりました。
(文:中屋 昌子)
参考
Kültur sanat ve yayın kurulu Başkanlığı
コメントを残す