時代や地域を問わずドラマ(事件?)の裏に潜むもの、といえば男女関係とお金をめぐる問題だ。良い人を引き寄せて、悪い人を避けるには、どうしたら良いのだろう。慣れない土地で暮らしながら、時々考えることがあった。当然、国籍や性別、宗教にかかわらず、良い人がいれば悪い人もいる。そもそも完全な悪人、完全な善人というものはいない。少なくとも私にとっては、自分の能力(知識や言語運用力、精神状態を含め)や置かれた状況によって相手が悪い人になったり、良い人になったりする、いいかげんなものだ。とはいえ、地域の文脈やジェンダーが相手との関係性に与える影響というのは確かに存在していて、宗教がからんでくると少し厄介である。
調査のためにタイ南部国境県に移り住んでから3日ほど経った頃、私は日本にいた当時の彼にこっぴどくふられるという経験をした。新しい彼女の話とともに、私がどれほど冷酷な人間か、ということを責められた記憶がある。私が攻撃的だった、というのは否定できない。相手の頼りなさが疎ましく、常に重荷に感じていた。それは、自分の自信のなさの裏返しであり、研究で抱えていた不安の反映でもあったと思う。私は、反省をした。同時に、あそこまで侮辱される必要があったのか、という怒りも湧き上がった。木端微塵に砕け散ったプライドを持て余し、ドリアンを投げつける想像をして何度自分を慰めたことだろう。
結婚してから恋愛する
怒れる私を、現地のムスリマ(イスラム教徒の女性)が一緒に慰めてくれた訳だが、彼女たちの恋愛事情もそれなりに複雑であった。結婚してから恋愛する、というのはムスリマたちがよく使う言葉である。イスラムの文化では、付き合うというのは、ほぼ結婚を意味する。人間は弱いので過ちが起こらないように、という考えが前提にある。男性はむやみやたらと女性(ムスリムの)と付き合うことはできず、夫としての責任を果たせる者のみが彼女すなわち妻を得られることになっている1。イスラムは禁欲的な宗教ではなく、結婚という枠の中であれば、欲望が最大限に肯定される宗教なのだ。また、結婚は神聖なものというよりは、二人のあいだの契約であり、死が二人を分かつまでと神の前で誓わされることはない。当然、契約が破棄されることも珍しくはない。
責任ある殿方ばかりでないのは、どこも同じだ。当時一緒に住んでいた女の子は、既婚者とよくデートしていた。資金力や地位がある男の人のなかには、未婚女性と遊ぼうとする人がそこそこいる。ご飯を食べさせてくれたり、オシャレなカフェやドライブに連れて行ってくれたりするから、そうした「頼れる大人の男性」と遊びに行く女の子もいた。親の目がある場合は難しいけれど、親元を離れバンコクなどの都会で暮らしていたりすると、ボーイフレンドの要求を断れずに一線を越えてしまう場合もあるようだ。若さや女性であることを上手に武器にして、楽しむことができているうちはいいかもしれない。しかし、未婚のまま妊娠したりしたら悲劇だ。相手が結婚してくれなければ、彼女らはムスリム社会から二重にも三重にも疎外される。文字通り、人生おしまいだ。
同じムスリム同士でさえ、女の子はからかわれる。私は、外国人で、ムスリムでもない。イスラムの教えを気にしなくてよいから(本当はそんなことはないはずなのだが)、格好の遊び相手だと思われてしまうことがある。第二夫人(もちろん私が改宗することが前提)に迎えようとしてくれる人もいる2。下心を隠そうともしない男性たちが、研究の手助けを装い、接近してきたことは実際あった。現地の恋人を通して研究対象への理解を深めるという人もいるし、胸ときめくドラマなら楽しんでも良いかもしれない。しかし、第二夫人になるために、ムスリムになろうとは思えなかった。ものすごい男前かつ未婚だったら良いかなと思ったが、それ以上に相手の好意を利用して何かを得ることは道義に反している気がした。幸か不幸か、これまで現地の独身ムスリム男性と大恋愛に陥ることもなかったので、恋人に起因するドラマは起こらなかった。
お金が壊す人間関係
男女の問題と同じくらい面倒なのは、お金の問題である。たいてい、日本人だとお金を持っていると思われる。日本で貧しい生活を送っていたとしても、先方には関係ない。必ず一度は、誰かからお金の無心をされることがあるはずだ。イスラムの文化では、外から来た旅人を助けることはもちろんのこと、もてなさなくてはならない。ケチは、ものすごくかっこ悪いことだと捉えられる。タイ南部のイスラム地域でも同様だ。たとえ貧しくても、一生懸命歓迎してくれる。とくに田舎では、そこにいた誰かが知らないうちに飲食代を払ってくれている、という経験を幾度となくした。信頼関係を築けていれば、また、本人にプライドと自制心があれば、家族以外の赤の他人にお金の無心をすることはまずない。
ある時、お世話になっている家の親戚のおばさんに、お金を貸してほしいと頼まれた。彼女は公立学校の先生で月収は2万バーツ以上(7万円近く)、タイ国内でも貧しいとされる南部国境地域では完全な勝ち組だ。妹がどうしても困っているということで、2000バーツ(6000円程度)日本の感覚でいうと2万円くらいを貸した。ずっと後になってお金を貸した話をすると、家の人が青ざめた。彼女の話は、全くのでたらめだったことが分かった。毎日のように家にきていた彼女は、お金を受け取った後はついに私が帰国するまで現れなかった。彼女は買い物中毒で、借金も抱えていた。今は、どのような田舎でも、都会生活の影響がみられる。SNSでは中間層的ライフスタイルが称揚され、オンラインであらゆるものを買うことができるようになった。家の前に広がるのは鬱蒼としたジャングルでも、きらきらした商品は家まで届くのだ。
お金で関係にヒビが入った話を挙げればきりがない。世界中どこでも、お金のことをうやむやにする人は信用すべきでない、ということだけは言えそうだ。関係が壊れてしまわないようにするため、私的な人間関係にお金を介在させるべきではない。お金を貸すと決めた場合は、寄付するくらいの気持ちでいるのがちょうどいい。とくに調査となると、自分の存在自体が、もともとあった社会や人間関係の均衡に変化をもたらし、場合によっては壊してしまうことだってある。男女関係にせよ、お金の問題にせよ、ドラマから学べることがあるのは事実だが、そんなに必要な経験でない気もする。「良い人」を引き寄せて、「悪い人」を避ける方法は、自分は誰でここに何をしに来たのかをはっきり意識し、自分の行動に責任を持つ、という点に尽きるのだと思う。
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