タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

ジャングルの中の宮殿

森の中に続く道を、バイクで風をきって走るのはとても気持ちが良い。自分が運転するのもいいけれども、後部座席に座ると爽やかな風に集中できるのでなおさらよい。タイ南部国境地域を移動していたら、おそらく一度は宮殿の横を通り過ぎることがあるだろう。宮殿といっても見えるのは、見渡す限りジャングルかゴム林なのだけれど。

ジャングルや森のあいまには田畑が広がる

タイ南部国境3県、パッターニー、ヤラー、ナラーティワート県とソンクラー県の一部には、かつてマレー系のスルタン王国パタニが存在した。パタニ王国が「独立した主権国家」だったことがあるのかという点については、議論の余地があるだろう。しかし、私たちが今目にしているのとは異なるタイプの国によって構成される世界があったのは確かであり、その世界にパタニという国が確かに存在していた。

女王の統べる交易都市

パタニ王国といえば、アユタヤ王国で高位に上り詰めた山田長政にもゆかりのある土地である。山田長政が命を落とす前に受けたミッションが、パタニで起こった一揆の討伐であった。山田長政のパタニ行きから(任務は成功するも毒を盛られて)無念のうちに客死するくだりは、遠藤周作の小説『王国への道』の後半でも読むことができる。

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権謀術数うずまく宮中。山田長政はどのように異国の地に流れ着き、栄華を極め、その人生を全うしたのか。ちょっとエロあり、涙あり、もちろんキリスト教の要素も外さない、遠藤周作の大河小説。

エキゾチックなコスモポリタン都市国家パタニの様子は、タイの誇るイケメン演技派俳優、アナンダ・エヴァリンハムが出た映画『Queens of Langkasuka』(タイ語はプーンヤイ・チョームサラット、大砲と海賊の長、といった意味)でも存分に再現(?)されている。そう、パタニはしばしばニュースなどを通して広められているゴリゴリのイスラーム過激派の中心地というより、最盛期には4人の女王が統治をしたことで知られる交易の中心地だったのだ。

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プーンヤイのポスター。アナンダが好きだとタイ人にいうと、彼はもうオジサンじゃんという反応をしばしば受ける。いくら揶揄されようが、アナンダはかっこいい。

パタニは、さらにいくつかの小さな王国に分かれていて、必ずしも中央の宮廷と関係が良い小国ばかりだった訳ではない。これらの小国を束ねるパタニは、サヤーム(タイの旧国名)世界の周縁で、マレー世界の一部を構成していた。ラジャ(王)たちの姻戚関係は、サヤームのみならず、マレー世界の諸王国と結ばれていた。現在、マレー半島の各地に残っている地名からも、こうした諸地域との関係の名残をうかがい知ることができる。

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タイ人は結局誰なのかに迫った、タイ研究の第一人者の赤木先生の集大成。タイは、サヤーム世界とタイ世界、そして南部のマレー世界で構成されているとする。南部のマレー世界のことがほとんど扱われていないのが残念だが、それがタイにおけるパタニの位置づけを表しているようでもあって興味深い。

国破れてジャングルあり

かつて交易で栄えたパタニ王国の名残を感じることができる場所は、ほとんど残っていない。ある日バイクで走りながら、ここにはイスタナ(マレー語で宮殿の意味)があったのだと教えてもらった場所に見えたのは深い森だった。本当に跡形もないし、タイの学校で使われている歴史教科書で教えられることも一切ない。けれども、人々のあいだではここにかつて確かにラジャがいたのだということが細々と記憶されている。

私のしばらく滞在していた地域には、バダン・ラジャ(王の田)というところがあった。幹線道路からサイブリ川の方向に続く細い道を、土ぼこりを舞わせながらひたすら進んでいったところに、パダン・ラジャがある。少し離れたところには、処刑場があった場所も残っている。ケダ(現在のマレーシアの北部)の王室とも関係があったというラジャの宮殿、イスタナは今や一面ゴムの林となった。考古学的な調査をする人材が圧倒的に足りていないので、各地の遺構は打ち捨てられ、朽ちて忘れられていくに任されている。

日常のなかの歴史

バダン・ラジャから知り合いのいる村に向かう途中には、カンポン・タームンと呼ばれる村がある。カンポンはマレー語で村の意味、タームンは地元の知識人によれば徳を積むという意味があるタンブンから来ているということだ。かつてイスタナを建築した人々が、ラジャに土地を与えられてこの地に住むようになったのが、村の名前の由来である。この村でも、地域の歴史や遺構に関心のある人は、ほとんどいない。自分の故郷や住んでいるところの歴史に関心が少ないというのは残念なことだ、と私は思わず一緒にいた人につぶやいた。

はたと自分を省みて、生まれた大阪、住んでいる京都の歴史や地名の由来を尋ねられてどれだけ答えられるだろうかと考えてみると、非常に怪しいことにも気づく。足利義満の造営した花の御所は同志社大学になり、豊臣秀吉が贅を尽くしたとされる聚楽第だって石碑が2つある程度で跡形もない。細かいことは説明できなくとも、室町幕府の名の由来や秀吉自身によって破壊された聚楽第の豪華絢爛さなど、なんとなく答えられるという人は多い。ジャングルのイスタナも、このような感覚に近いのかもしれない。歴史に学ぶということは将来に向けた行動の指針になるという側面があるけれど、日常生活のなかの歴史というのは諸行無常を感じさせるものでもある。

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