フィールドワーク四方山話, マレーシア

アンティのロティ・ジョン

マレーシアのクアラルンプールに行くことがあれば、かならず足を運ぶのがハビーブ・ロティ・ジョン&バーガーという店である。店長の名はマスという。森公美子の貫禄そのままに、サイズを少し控えめにして、ヒジャブ(イスラム教徒の女性がかぶるスカーフ)をつけているところを想像してもらえればよい。マスは、自分の視界に入っているうちは、客人の面倒をすべて見なくては気が済まないタイプだ。店に到着して数分もしないうちに、目の前にはバーガーだけでなく、どこから運ばれてきたのかわからないトロピカルなアイスなどが所狭しと並べられる。クアラルンプールという大都会で、タイ南部の田舎に行った時のような気持ちになる場所だ。

マレーシアのランドマーク、ペトロナスツインタワー(筆者がおのぼりさんをしたときに撮影)

6年ほど前のこと、マスと一緒に暮らしていた姪っ子のナヤと私は、タイ南部のとある村でハッジ(メッカ巡礼)に出かける人の送別会に行ったときに偶然出会った。その縁で、私ははじめてマレーシアの土をふむことになったのだった。マスはバーガー店を切り盛りしながら、女手一つで子供を二人育て、高齢の母親の面倒も見てきた。たまの休みの日には、宗教指導者の講演を聞きに行ったり、行きつけのレバノン料理店に行ってご飯を食べたりと、かなり慎ましく暮らしている。

当時、化粧っ気もなく慈悲の塊のようなナヤ、金髪に濃い化粧でヤンキーまっしぐらな16歳の娘サナ、マスの母(ナヤとサナの祖母)が店を手伝っていた。サナはマスに命じられて、クアラルンプール近郊の観光地ゲンティンハイランドに連れて行ってくれたはいいが、学校に行かなくていいのかと聞いたらうるさいババアといい、ショッキング・ピンクのフーディを着た友達を連れてきてケーブルカーの中で大騒ぎをし、いざ到着したらショッピングモールとテーマパークのフュージョンのようなところで、スマホの電源だけを気にする十代のギャルを2人つれてやることも思いつかず、マクドでランチをしてとんぼ返りしてきた思い出がある。マレーシアの見どころは(どこもそうかもしれないが)、truly Asiaとかなんとかいって政府が宣伝している自然やリゾート、街並みなんかにではなくて、そこで暮らす人にこそある。

パタニ・ディアスポラ

マスが生まれたのは、タイ王国の南部に位置するパッターニー県サイブリだ。タイ南部の東海岸側には、19世紀の終わり頃までマレー系の王国パタニがあった。いまでも住人の多くは、パタニ・マレー語を母語とするマレー系のムスリムである。マスの母はタイ国籍で、実家は今でもサイブリにある。1970年代にメッカ巡礼を行ったマスの両親は、そのままサウジアラビアに住むことを決めた。マスの両親は、子供たちがタイの教育制度のもとで「タイ人」としての教育を受けることを避けたかったようだ。マスは小学生の時にサウジアラビアに移住したので、パタニ・マレー語、標準マレー語、そしてアラビア語を母語にしている。サウジアラビアで学業を終え、マレーシア人と結婚し、マレーシア国籍を取得した。マスの2人の姉も同様で、みんなマレーシアに住んでいる。その子供たちはみな、マレーシア国籍をもつマレーシア人だ。

メッカには古くからのジャウィ(マレー系)1のコミュニティがあり、タイ南部からハッジやウムラ(ハッジの月以外に行われるメッカ小巡礼)に行ったまま、現地に滞在するという人も少なくなかった。ハッジやウムラのためだけでなく、留学や出稼ぎでサウジアラビアに移住した人も多い。1970年代には、タイからの独立をかかげる分離独立派組織を率いたエリートたちが、メッカに連絡所を置いていたという話も聞く。サウジアラビアの市民権を取得するのは難しく、現地でタイ南部の出身の両親から子供が生まれた場合、多くはタイ国籍を取得することになる。マスの甥っ子であるナヤが最近結婚した相手は、生まれも育ちもサウジアラビアで、パタニ・マレー語とアラビア語しかできないけれど、国籍はタイであった。

タイとサウジアラビアの政府関係は、90年代以降冷え込んだままだ。1989年、サウジアラビアのファハド王の長男であるファイサル王子の宮殿で働いていたタイ人が、20億円以上の価値がある宝石類を盗むという事件が生じた(通称ブルーダイヤモンド事件2)。

アニメまでつくられている。呪われたブルーダイヤモンド。

犯人が捕まったのちにサウジ王家に返還された宝石はごく一部で3、もっとも貴重なブルーダイヤモンドは依然として行方不明のままだ。その後、独自調査に訪れていたサウジアラビアの外交官3名がバンコクで襲われ、殺害される事件が起こった。タイ警察やタイ王室の関与がまことしやかにささやかれるも、真相は闇に葬られた感が強い。サウジアラビアとタイの関係は、当然ながら冷え込んだ。その後、サウジアラビアにいたタイ国籍者の多くは、マレーシアやその他の地域に移住するか、タイ南部に帰郷したようだ。経緯はどうであれ、マレーシアには、マスやナヤの夫のように、タイにルーツのある人がたくさん暮らしている。

ジョンのパン?

マスの店の名は、ハビーブ・ロティ・ジョン&バーガーである。ハビーブは、アラビア語で愛しい人(男性形)の意味で、息子や夫を呼ぶとき、また、名前としても使われる。ロティはマレー語でパンのことで、日本でいう食パンや菓子パン類もロティという。ロティというときには、ロティ・チャナイ(カレーなどと一緒に食べるクレープ状のパン)がイメージされることも多い。

ロティ・ジョンは、マスの愛しいジョンのパンということではなく、マレーシアやシンガポールで人気のサンドイッチの名前だ。ジョンは、白人男性一般を意味する。ジョンの由来については確かな説はないようだが、このような都市伝説が知られている。1960年代、シンガポールの街角にあったホーカー(露店)で、バーガーが売られていた。ある日イギリス人の客がやってきたが、バーガーを切らしていた。そこで店主がありあわせの材料で作ったサンドイッチを手渡す、「このロティを食べて、ジョン」4

ロティ・ジョンに使われるのは、丸いバンズではなく細長いパンで、ひき肉やスパイスが入ったオムレツ、玉ねぎのスライスが挟んである。チリソース、ケチャップなどをかけていただく。マスのロティ・ジョンは、ものすごく長いうえにパンにマヨネーズが大量にぬられている。恐ろしいカロリーなのは間違いないが、時々無性に食べたくなる。

ロティ・ジョン。ちょうど良い写真がなかったので、マスのお店(以前の店舗のとき)のFacebookのページから拝借。

初マレーシアから、タイの南部に戻ったときのことだ。当時居候していた家の隣の軒先でバーガーを売るべージョン(ベーというのは男性の名前につけるお兄さん的な意味の言葉)という仲良しのおじさんがいた。べージョンに、マレーシアでロティ・ジョンを食べたと、意気揚々と伝えに行った。ベージョンからは、ロティ・ジョンなんて聞いたことない、そんなの無いよとつれない返事。国境を隔てたタイ側では、マレーシアに出稼ぎや留学経験がある人を除いて、ロティ・ジョンというメニューは通用しない。その後もタイでバーガー店をみかけたらメニューをみてみるけれど、ロティ・ジョンが売られているのをまだ見たことがない。

マスのお店のメニューは、ロティ・ジョン、チキンバーガー、ビーフバーガー、スペシャル(肉ましまし、チーズ入)である。チーズなどのトッピングを好みで追加したり、野菜を抜いたりすることができる。夕方6時頃にお店が開くと、どこからともなくバイクや車で人々が現れる。ほとんどが持ち帰りの客だが、いつも机を2つ、椅子を5、6脚出しているので、店で食べている人もいる。礼拝の時間を除いて、マスとサナ(ときどきサナの男友達)は働き続ける。夜がすっかり更け、午前0時を過ぎても人の流れは止まない。マレーシアの人たちは、食べることが大好きなのだ。マスのお店が深夜2時過ぎに閉まったあとでも、開いているお店を見つけることができる。

マスのお店のストリートビュー。

2020年3月以降、マレーシアでは、新型コロナウイルス感染症封じ込めのためロックダウンが行われ、10キロ圏内の移動しか許されないなど、飲食店が置かれた状況はかなり厳しくなっている。マレーシア人の日々の生活を彩ってきた食のあり方も、この1年で大きく変化したことだろう。食べ物を囲みながら、友達や家族とたわいもない話をする。こうした日常が、一日でも早く戻ってくることを願うばかりだ。

ハビーブ・ロティ・ジョン&バーガーの行き方

マレーシアのモノレールLRTのゴンバック方面に乗車し、終点の一つ手前のタマン・メラティまで行く。駅から10分くらいゴンバックの方面に向かって歩くと、右手側にそのお店は見えてくる。アミーン・マジュ(AMEEN MAJU)というママック(インド系)のお店の向かいにある。店というよりかは、屋台に近いかもしれない。

  1. アラビア語で、現在の東南アジアの島しょ部を中心とするイスラム地域や、その地域の出身者はジャウィと呼ばれる。ジャワが由来だといわれる。
  2. ブルーダイヤモンド事件について、犯人や関係者へのインタビューをしているBBCの記事は以下で読むことができる。 https://www.bbc.com/news/world-asia-49824325
  3. 偽物も含まれていたということだ。その後よく「似た」宝石を身に着けた政府関係者の妻の写真がリークされたりしていた。
  4. たとえば以下の記事にもこの話が書かれている。https://www.eatzcatering.com/blog/who-is-roti-john-or-what-is-it/

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