番外編(日本)

飛行機を発明して、カミサマになる

京都から関西国際空港へ向かうバスのなか、本などを読むと気分がわるくなるので、いつも寝ているか見るとはなしに景色をみている。バスの前方に設置されたモニターに、モールなどの広告に交じって出てくるのが飛行神社だった。広告の相場は知らないけれど、けっこう潤っている新宗教だろう。これから海外に行くという高揚感も手伝って、バスを降りたころにはすっかり忘れていた。2020年3月、新型コロナウイルス感染症が拡大するなか、3度の帰国便キャンセルを乗り越えて日本に戻ってきた。それから1年以上が過ぎ、変異株が猛威をふるうようになって、ちっとも空港、いや海外に行けるような気配ではない。飛行機が恋しくなる今日この頃、史跡石清水八幡宮にほどちかい飛行神社に行ってみることにした。

京都市内から1時間ちかく原動機付自転車を飛ばし、初夏で緑がもこもこの天王山を右手に、前方には男山をのぞみながら宇治川と木津川を渡る。男山のすぐふもとに、美術館めいた近代的な建物があった。これが飛行神社だ。設置されていた縁起略記によると大正4年(1915)3月10日に二宮忠八によって建立され、饒速日命(にぎはやひのみこと)を主祭神とし、航空殉難者、薬祖神を祀っているとされている。昭和30年(1955)忠八の次男が再興にあたり「空は一つなり」の信条のもとに、世界の航空先覚者と遭難者の霊を迎え祀るようになった。現在の本殿と併設されている資料館は、忠八の飛行原理発見から100周年である平成元年(1989)に改築されたものだ。

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手水の前面にも、飛行機の絵。花手水が参拝客の目を楽しませてくれる。

二宮忠八は、かつては国語の教科書にのるくらいの著名な人物であった。飛行機の関係でよく知られているが、じつは飛行機開発のために軍を辞めて勤めたのが製薬会社だったということもあって、薬学ともかかわりが深い人物である。飛行神社の第三殿は薬光神社とあり、日本の薬学会を築いた長井長義博士や、二宮忠八がともに働いたという武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などを祖伸として祀っている。健康長寿、病気平癒、医学会・薬学会の発展を祈るのみならず、なにやら金運・開運のご利益もあると書いてあった。かつて、この地にいた白い蛇が神社の建立とともに姿を見せなくなったことから、白蛇がこの社にこもられたといわれているのだ。なんとも盛りだくさんな神社である。

リリエンタールやライト兄弟よりも早く

「リリエンタールやライトが、航空家として名を高めるよりも前、日本人で推進動力を除く外は、殆ど近来の飛行機と違わない飛行機の模型を完成した人がある」1。二宮忠八は慶応2年(1866)、伊予は八幡浜の生まれ、12歳で父を亡くして奉公に出た。凧作りに長けていたことで近隣では名を知られていた少年で、凧を売ったお金で学費を賄ったという。写真館などでの勤務を経て、薬商の叔父の下で働くことになった忠八は、働きながら物理や化学、薬の知識を学んだ。明治20年(1887)に徴兵検査に合格するも、背丈が足りなかったことで看護卒として歩兵連隊に配属されている。

明治22年(1889)の訓練中、カラスが翼を動かさずに、兵士たちの残飯を狙って滑空するようすを見て、飛行器のヒントを得た。忠八は軍では薬剤を、その他の時間は飛行の実験に費やした。虻、蜂、玉虫、蜻蛉といった昆虫、鳶、鷹、鶴、雁、鴨、鵜、鴎といった鳥類、トビウオや竹とんぼに至るまで、空中を飛ぶもののようすを研究した。そのなかで忠八がもっとも理想的だと考えたのが、玉虫であった2

Amazonで売っているメタル製の玉虫型飛行器モデル。

計算が尽くされた飛行器の模型が作られ、動力はゴムと漁師が網を縒るときに使っていた機械に目をつけた。忠八は、完成したカラス型の模型飛行器を、明治24年(1891)4月29日、丸亀の練兵場で10メートルほど飛ばすことに成功する。ライト兄弟が飛行機の実験を始める9年前のことである。

日露戦争が始まると、忠八は朝鮮半島に出征した。軍務で朝鮮半島に赴いた忠八は、通信や偵察、伝令、運輸などに飛行器を用いることができるという思いを強くしたという3。カラス型模型飛行器を飛ばしたときのように、ねじったゴムでは動力として十分ではない。動力としてエンジンを積載した飛行機の開発のため上申書を提出し、学識のある人に研究を続けてもらうようにと訴えた。3回にわたって軍に上申するが、飛ぶかどうかわからないものを検討する余地はない、外国でも聞いたことがないと却下される。忠八は、自身の身分の軽さがゆえに聞き届けられなかったのだと、独力で完成させて国に報いようと決心する。

忠八は大阪製薬株式会社の営業部員となった。内服用殺菌剤であるクレオゲスト(正露丸の成分としても知られるクレオソートを溶解・吸収しやすくしたもの)や舎利塩という下剤の開発に成功し4、これをもとに大阪精薬合名会社を設立している。明治34年(1901)ふたたび飛行器の製作に取り組むため、大阪の北浜から京都府八幡市の精米所を買い取って移り住んだ。淀川の河畔のため飛行実験に便利だったことと、精米所の石油発動機を動力として使えると考えたためである。

空に命をかけた人たち

明治36年(1903)12月17日、アメリカのライト兄弟が、オートバイエンジンで回すプロペラを推進力とした飛行機で有人飛行に成功した。明治42年(1909)に、新聞でライト兄弟の偉業を知った忠八は、飛行器の模型をハンマーでたたき壊し、以後一切の飛行器研究をやめてしまう。

ライト兄弟の有人飛行成功の報道を受けて、日本軍のなかでも飛行機が注目され始めた。軍は飛行機研究のため帝国飛行協会を設立し、長岡外史陸軍中将が初代会長として就任した。航空とスキーの父といわれる長岡外史(重力をものともしない立派なヒゲが水平方向にむけて整えられている様子が有名な人物でもある)は、皮肉なことに、忠八の上申書を却下したまさにその人物である。長岡中将は雑誌『飛行』の誌上で、かつて忠八の上申書を却下したことや、そのことさえ忘れていたことを詫び、忠八の発明を台無しにした責任を公に認めている。

世界が飛行機熱に浮かされるなか、忠八の功績が脚光を浴びることとなった。大正14年(1925)9月17日、逓信省が賞状と銀製の花瓶を授与し、翌年の5月24日には大阪朝日新聞社が純金の大賞杯と表彰状を贈った。昭和2年(1927)には、勲六等が授けられている。昭和12年(1937)には、国語の教科書に逸話が載せられ、多くの国民の知るところとなった。欧米よりも先に飛行機を発明したという日本人がいたということは、日本人の自尊心を満たすものでもあっただろう。しかし忠八は、いったいどれほど悔しい思いをしただろうか、私には想像もできない。

キャプションには「正装は二宮祭司、軍装は渡邊理事」とある。飛行神社の字は、長岡外史中将が揮毫したことが書かれている。(『日本最初鎮座飛行神社祭神』)

昭和10年(1935)に出版された航空殉難者などの氏名が記載された『日本最初鎮座飛行神社祭神』の冒頭で、忠八は以下のように記している。

「我国航空事業の発達を祈願し防空護国の神に崇めんと曩に京都府八幡町の自邸内に古代の飛行神、饒速日尊を主神に全国航空殉職同胞の英霊を合祀して正神と崇め慰安奉斎に務むる祭司は往年陸軍に徴兵在役中世界に先んじて軍用飛行の原機を発明したる功績三十餘年後天聴に達し勲功旌表せられ聖恩に感激したり。而して既往を顧みれば研究の犠牲となるべき身が生存して表彰せられ却て爾後幾多殉職者の不幸に逢わしとは洵に感慨禁じ難く茲に於て老躯を提げて神職の道を修め殉職者ある毎に其筋より通報を受け其英名を神聖なる霊代に崇めて神祠に奉安し日夕禮拝しつつありし(以下略)」

『日本最初鎮座飛行神社祭神』

飛行機事故で死去した人々を弔うために、建立されたのが飛行神社だった。忠八は、逓信省や陸海軍などその筋から飛行殉死者にかんする報告が来ると、自宅で細々と祀っていた。研究の犠牲となって、死んでいてもおかしくなかった自分が生きながらえた。『飛行神社祭神』には、自身の功績が認められたことへの感謝とともに、数々の殉職者を見送る側になった感慨が記されている。齢70歳になり祭祀が滞ることを心配した忠八は、財団法人飛行義会の認可を得て、神社を拡張した。『飛行神社祭神』に記された名前や所属を見ていると、軍属のみならず、民間の飛行家たちの名前が多く並んでいる。航空機は、その後の戦争を根底から大きく変えた。戦争の影がしのびよるなかで、忠八の発明は国威の宣揚のために都合がよかったことは間違いない。しかしそれ以上に、忠八をはじめとする多くの人々が空を飛ぶことにかけた情熱に胸を打たれる。

飛行神社。航空各社が出資してつくったアトラクション的ななにかか、怪しい新宗教だろうな、などと思っていた自分が恥ずかしくなってくる。

飛行神社の行き方

京阪本線 石清水八幡宮駅から5分ほど。
お参りは午前9時から午後4時半まで。
飛行神社公式サイト:https://www.hikoujinjya.com/

  1. 北垣恭次郎「近代日本文化恩人と偉業」昭和16年、明治図書株式会社、153頁。以下に記した二宮忠八の生涯は、この本に基づく。二宮忠八の生涯や功績に関しては、このほか関猛 (1944)『二宮忠八伝』日光書院が参考になる。当時の子供に向けて書かれたと思われる伝記本で、絵や写真がたくさん入っていて読みやすい。近年では、菅原千夏(1993)『玉虫とんだ―世界初の模型飛行機をとばした日本人 二宮忠八物語』という子供向けにイラスト入りでわかりやすくまとめられた伝記本がある。50年の時を経て、子供向けの伝記本がどのように変わった、あるいは変わってないのかを見比べてみるのも楽しそうだ。
  2. 同上、154~155頁。
  3. 同上、162頁。
  4. 二宮忠八は名だたる博士に並んで、薬学会の総会演説に選ばれている。二宮忠八(1903)「クレオゲスト」(消化性結麗阿曹篤)ニ就キテ (總會演説)」『薬学雑誌』254号。以下からダウンロード可能。https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi1881/1903/254/1903_254_328/_pdf/-char/ja

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