番外編(日本)

涼しいお盆

2021年8月、雨が降り続いて、涼しいお盆を迎えた。大文字の送り火は今年も一部だけ点火、雨のせいで火がなかなか点かず、ご先祖様たちは無事に帰れただろうかと側で見ていた人たちと話をした。年々、8月が近づいても、重苦しい空気を感じることがなくなってきた。昭和の終わりに生まれた私のまわりには、まだ戦争を経験した人々もいたし、生々しい記憶をとどめた建物がたくさんあった。夏が近づくと、「はだしのゲン」や「つるにのって」のようなアニメを見る機会もたくさんあって、そのたびに、眠れなくなっていた。

被爆ということについて改めて深く考えさせられたのは、2011年のことだ。反原発運動にかかわっていた知人に、あなたは被爆者の孫なのに、どうして何もしないのかと問いかけられた。広島や長崎のことに関心をもって調べたことがあれば、被爆をした一人ひとりの原爆への向き合い方が違っていたということを知っているはずだ。被爆したことをひたすら隠し続けた人たちもいるし、原爆手帳を持っていても核心部分は話すことのないまま亡くなっていた祖父母のような人もたくさんいる。原爆をめぐる話になじみの薄い環境で暮らしてきた人たちにとっては、被爆とは意味をなさないものか、それとも過剰に意味を与えられるものか、どちらでしかないのだろうか。運動などに参加したことはないけれど、核兵器や原子力に賛成している訳ではない。正直いって余計なお世話だとその時は思った。

大正生まれの祖父は戦争が始まった頃には既に十代の後半で、戦争のことはどちらかというと冷めた目で眺めていたようだった。96歳まで生きた祖父は、晩年は庭にやってくる雀をスズさんと呼んで可愛がったり、詩をかいてみたり、ただただ生きていることを愛でて過ごしているようで、戦争のことを話すこともなかった。自由に外出できなくなってからは庭を眺めながら、世の中の流れが激しくて大変な時は、後ろに行かずにそこで踏ん張っているというだけでも立派なことだとよく言っていた。祖父が亡くなってから数年、ふと棚に置いてあったバインダーが気になって開いてみると、祖父が原爆手帳を申請した時の書類の写しが丁寧に保管されていた。ところどころ、文字が消えかかっている。大正10年2月21日生まれ、申請は昭和52年12月15日付、56歳の時とある。以下、被爆者健康手帳交付申請書に書かれていた内容を書き起こしてみたい。

原爆関連の資料はたくさんあるが、中国新聞の広島平和メディアセンター(https://www.hiroshimapeacemedia.jp/blog/?lang=ja)や写真アーカイブ(https://hiroshima75.web.app/index.html)が参考になる。

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被爆者健康手帳交付申請書1

今まで申請をしなかった理由(くわしく)
直接の被爆者でなく、中国電力健康保険に加入していたため痛切に考えていなかった。中国電力を退職する頃(昭和50年頃)将来の病気のことを考え申請用紙をもらっていたが、33回忌の原爆の日に発起し、今年中には申請したいと思っていました。

1.被爆当時の状況
(当時、幼少でくわしいことがわからない人は、よくわかる人に聞いて、また、胎児であった人は、あなたを産んだ母親のことを書いてください。)
当時の住所
広島県佐伯市宮島町大元公園内兵器補給廠工員宿舎
当時の本籍地
広島県広島市牛田本町402番地

2.入市被爆者の場合
(胎内被曝者で、あなたを産んだ母親か入市被爆者の場合は、その母親のことを書いてください。)

ア あなたは、原子爆弾が落ちた時にどこにいましたか。
(当時の市町村名で書いてください。)
佐伯郡宮島町包ヶ浦

イ あなたが、はじめて入市したのはいつですか。
8月8日午前9ごろ 

ウ その時の入市先(目的地)はどこでしたか。(旧町名、丁目、場所名など。)
牛田本町402番地(当時の自宅)

エ なんのために入市したのですか。(入らなければならなかった事情など。)
1.広島市内在住の動員学徒約20名(修道中学生)の輸送責任となったため。
2.自分の家族が牛田本町に居住していたのでその安否を確かめるため。
3.妹貞子が三篠町誉工場に動員、父は市役所戸籍課に勤務していたのでその安否を確かめるため。

オ それでどうでしたか。(経過と結果をくわしく書いてください。)
1.軍用船で宇品に上陸、夕方6時までの予定で解放し御幸橋附近まで動員学徒と同行した。夕方6時前自分が帰ってみたが1人も帰らず、約1時間くらい待った後包ヶ浦へ向けて帰った。
2. 父は文徳殿2と聞いていたので探したが居らず附近の収容所にも見当なかった。牛田の自宅は石の内柱だけを残して附近一帯とも全焼して家族はいない。牛田の小学校の方へと人に聞いたので小学校か工兵橋の方を探したが不明。もしや緑井の方へと考えあきらめて又牛田本町へ帰って行き、午後6時前に宇品港へと引き返した。

カ その時、どのような道順で入市先(目的地)にたどり着きましたか。(出発地から旧町名や目標物を掲げて書いてください。)
宮島(包ヶ浦)―宇品港―専売公社―御幸橋―比治山―霞町(兵器補給廠)―比治山文徳殿―稲荷町―的場―荒神橋―広島駅前―大須加町―饒津裏―牛田本町―安楽寺―牛田小学校―工兵橋―牛田本町…帰りは逆の順…宇品港―宮島(包ヶ浦-杉ノ浦)

キ その時、歩きましたか。乗物でしたか。
広島市内は全部徒歩。

ク 入市した時の街のありさま、特に強く印象に残っていることはなんですか。
1.宇品港入港2,300米あたりの海上に死体が漂流していた。
2.御幸橋あたりから橋のふもとに(殆ど橋のふもとも同じだったが)被爆者が集められ衛生兵らしい人が介抱していたが「兵たいさん水…」とかすかな声が今も耳に残っている。
3.比治山文徳殿から下りた所の道路のわきに母親(すでに死亡していたようだ)にすがる幼児の姿を見て一瞬ジーンと胸に来た。衛生兵が見つけるだろうとそのままにして先を急いだ。
4.自宅は全焼していたがここに来るまで悲惨な結果をみて来たのであたりの状況よりも家族のことを探し出すのに精いっぱいであった。

ケ あなたが、はじめて入市した時、一緒に入市した人はいますか。その人の氏名、続柄(間柄)生死の別を全員について書いてください。
(略:引率した学生の名前)

コ あなたが、はじめて入市した時、出会った人はいますか。それはどこでしたか。その人の氏名、その人の氏名、続柄(間柄)生死の別を全員について書いてください。
(略:たまたま焼け跡で会った近所の人の名前)

サ ほかの日にも入市しましたか。
入った

シ その日にちと入市先とその道順を書いてください。(2日以上入っている場合は、最初の2日間について書いてください。)
8月18日 三篠町(妹貞子が誉工場に動員中被爆したため)
宮島―宮島口―己斐―横川―緑井―三篠町(母と一緒に工場跡を探したが不明)―緑井(泊)
8月19日 翌日私だけで又三篠町附近を探したが不明のため宮島へ帰った。

ス その時、いっしょに入市した人や途中で出会った人はいますか。日ごとにその人の氏名、その人の氏名、続柄(間柄)生死の別を全員について書いてください。
(略:一緒に妹を探した母の名前)

その他
被爆証明書が旧様式の理由
住民票申請時用紙が改定になったことを役場で知り、申請書のみ書き換えました。
追記)
兵器補給廠本廠の将校集会所では仁科博士を中心に大型○○(2文字不明)のようなもの(太さ30㎝長さ1m程)を前にして会議がもたれ、TNTの2000倍の威力を持つ新型爆弾の話合があった3
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後ろの真ん中の白シャツが祖父、学生の時は水泳に打ち込んでいたという。皇紀2600年(1940年)、19歳の時の修道中学の同窓会。1930年生まれの日本画家平山郁夫は、旧制修道中学在学時に動員されて被爆した。

当時の満年齢は24歳、広島陸軍兵器補給廠包ヶ浦分廠陸軍兵技少尉とある。現在の広島大学の前身だった広島高等工業学校を出た後、陸軍の軍属となり、宮島で不良少年少女(たぶんタバコ吸ったとか男女交際したとかその程度)の監督をしていたことがあるという話は聞いたことがあった。原爆では、遺体さえ見つからなかった貞子のほか、父と上の妹をその年の10月に亡くしている。

2000年代の初頭のことだったと思うが、ある8月の暑い日、祖父が庭の梅の木の近くを掘り起こして、錆びた日本刀を取り出したことがあった。軍人だった時のもので要らないからといって、そのままゴミとして捨てていた。小学生の頃に学校でかなり強烈な反戦教育を受けたこともあって、その時は祖父が軍人だったということの方にショックを受けたこと、ゴミで捨てて大丈夫だろうかという疑問を感じたということしか記憶にない。祖父が最期の日々を過ごし、息を引き取った部屋には、いつも学徒動員で亡くなった貞子の名前が記された表彰状がかけられていた。はじめて見た時、貞子といえばリングを連想して、不気味な気持ちがしたことを覚えている。内閣総理大臣佐藤栄作と署名がある表彰状は、祖父が座っていた場所からだと、いつも目の端に入るくらいの位置にかかっていた。

今こうやって思い出してみると、色々と聞いてみたいことがたくさんある。日本刀をなぜ庭に埋めていたのだろう、どうしてあの時に掘り起こそうと思ったのだろう。賞状を当たり前のようにかけてあったけれど、いつもどんな気持ちで眺めていたのだろう。結局、いろいろと聞きそびれてしまったし、たとえ聞いたとしても答えてくれなかったかもしれない。祖父が被爆した年齢をとうに超えて、人生経験も少しは増えた。原爆のことに自分がどうやって向き合ったらいいのかは、正直まだわからない。バインダーに綴じられた資料や古い写真を見ながら、涼しいお盆をひたすら静かに過ごした。

  1. 現在の被爆者健康手帳交付申請書あるいは被爆者支援についてhttps://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/69/3341.htmlあるいはhttps://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/genbaku/index.html
  2. 戦時中、市役所から戸籍が疎開させられたのが比治山文徳殿だった。比治山に被爆建物として残っている。
  3. 仁科博士が率いた日本の原爆開発について、最近Eテレで特集されていた。「ETV特集「日本の原爆開発 ~未公開書簡が明かす仁科芳雄の軌跡~」https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/JZW13Z1YV 

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