日本からタイの南部に行く時、いつも頭を悩ませるのが何をお土産に持っていくかだ。10年ほど前、学部から修士にかけてお世話になった先生方は、タイに調査に行くとき女性には口紅、男性には菓子折り、そのほか寺院付属学校など子供がいる場所を訪問するときには文房具のセットなどを用意していた。タイの南部のマレーシアの国境地帯には、ムスリム(イスラム教徒)が多い。ここで気を遣わなくてはならないのは、ムスリムが食べることができるか、あるいは使うことができるかということだった。
ムスリムへの鉄板手土産
ムスリムにお土産を買うとき、最低限注意しなくてはならない点は、豚由来のもの(ゼラチン、ショートニングはNG)が含まれていないか、アルコールが含まれていないかという点だ1。ムスリムによって気にする度合いが違っているので、それでも嫌だといわれることはある。しっかりと何重にも確認をして購入していったお菓子を渡した時に、豚が入っていそうで恐ろしいから受け取れないといわれたことが何度かあった。知らずに食べてしまったら仕方がないことになっているとはいえ、イスラムで禁止されているものを食べると罪になってしまう。得体の知れない食べ物は口にしないという人は、とくに年配者に多い。
正直にいうと、これまでタイ南部の調査地のムスリムの皆さんに日本から持って行ったもので喜ばれた食べ物は、ほとんどなかったといっていい。もう一度買ってきてほしいと頼まれたものといえば、麦茶のパックとフェイスマスクくらいだ。麦茶は濃く淹れたら代替コーヒーのような味がすることもあって、コーヒーの代わりに飲むようになったという人がいる。日本で5枚400円程度のパックが、現地では(どういうルートで運ばれてきたのかはわからないが)900円程度で売られているのを見たこともあり、若い女性にはフェイスパックがとくに喜ばれた。
ムスリムもいろいろなので一概にはいえないが、私は個人的にはムスリムが多い地域で、とくに田舎に行く時には日本から手土産を持っていかなくて良いと思っている。では、いったい何を持っていけばよいのか。都会でも田舎でも、ムスリムへのおみやげで間違いないのは、デーツ(ナツメヤシの実)である。デーツはクルアーンでも言及されており、預言者ムハンマドが好んでいたとして、ムスリムにとっても特別な食べ物だ。食感や味は、干し柿に似ている。都会の専門店に行けば、デーツを割って間にナッツを挟んだ高級なものから、枝付きで無造作に袋や箱に入れられているお手頃価格のものまで選択肢が広く、予算に合わせて選ぶことができるのもうれしい。ハラールかハラールでないかという点も、デーツなら問題にならない。
「ハラール」とはなにか
今でこそハラールという言葉は知られるようになり、大学の食堂でもハラールやムスリム・フレンドリーといったマークが付けられることも増えた。イスラムでは、アッラーの御名が唱えられていないものとアッラー以外の名が唱えられたものがハラーム(禁止)とされている。クルアーンで明示的に禁止されている豚肉、死肉、血液、アルコールの他、認められた肉であっても、イスラムの方法にのっとった形式で処理されていない場合は禁止される。それに対して、アッラーが許されたものが、ハラール(合法)である。ハラールは食べ物だけに使われる言葉ではなく、ハラールな化粧品、ハラールな家、ハラールな取引といったように、イスラムの教えにのっとったものであることを指して使われている。
ハラール食は、調味料にアルコールやアルコール由来成分が含まれていないこと、豚を原料としたものが入っていないことが確認されるならば、料理方法には細かい規定がない。ハラール食が手に入らない時は、豚肉さえ排除されていれば、規定に従ってと殺された肉でなくても食べても良いとされる場合が多い。餓死寸前であるなど、極限状態では禁止されている豚肉や死肉も食べることが許可される。
かつては、自分が食べるものがどこからやってきて、どのように処理されたのかは把握できていた。いまでも、村の暮らしにおいては、自分たちの家でと殺した肉、知っている人が作ったおかずといったように、日々食卓に上る食べ物がハラールかどうか気にされることはあまりない。問題になるのは、外からやってきた馴染みの無いものや、自分たちが把握できていない新しい製品だ。そこで人々が参考にしているのが、ハラール認証がついているかどうかという点というわけである。お土産が受け取ってもらえなかったのは、私がムスリムでないことに加えて、ハラールマークが付いていなかったということも大いにあるだろう。
日本とハラール
ハラールをめぐる日本の認識の甘さを露呈させたのが「インドネシア味の素事件」だった。2001年1月、インドネシア味の素のうま味調味料が、ハラール認証を受けたのちに発酵菌の栄養源を作る過程で使用する触媒に豚から抽出した酵素が使われていたことが判明し、現地法人の日本人社長らが逮捕された事件である。最終製品には豚由来のものは含まれていなかったため事件は政治利用されたのだということもささやかれたが、ムスリムが豚に対して抱いている強い忌避感情が、日本ではうまく理解されなかったのも事実であった。
味の素事件から20年が経ち、日本においてハラールという言葉は浸透した。しかしイスラム教やムスリムへの理解に基づいたハラール対応が日本に定着したとはいいがたい。日本国内のムスリムコミュニティは、1980年代以降、徐々に拡大してきた。イランやバングラデシュ、90年代にはインドネシアからの労働者や留学生が増加し、コミュニティ内でハラール対応した食事を提供する小さな動きが始まっていった。私が2010年代に大学院生だったときも、ムスリムの学生のほとんどはこうしたコミュニティを通して提供されるハラールミートを購入するか、より安価に済ませたい学生はブラジルやアメリカ、オーストラリアなどキリスト教(同じ一神教)の国から輸入された肉であれば購入して調理するといった方法をとっている人がほとんどで、一緒に外食をするという機会はあまりなかった。
2010年代からインドネシアとマレーシアを中心に日本を訪れるムスリムの観光客が増加すると、京都でもハラールラーメン店が開店するなど、ハラールはブームといってもよいほどになっていった。2015年には、国土交通省が「ムスリムおもてなしガイドブック」を出している2
豚はクリアできたとしても、和食に欠かせないみりんや醤油、味噌といった調味料がハラール基準にひっかかり、ハラール対応の調理場や調理器具を分ける必要もある3。ハラール認証基準が厳しすぎて諦めたという店や、ハラール認証を取ればビジネスにとってプラスになる(マークをつければ売れる)という認識の下でハラール認証を取ったものの、思ったより売り上げがなく更新の際には投資を辞めてしまう店もたくさんあったという。
ムスリムが非ムスリム地域で暮らすことも、その逆も増えるなかで、日本に来たのだから日本に合わせろと言うことも、あまりに厳しすぎる基準を非ムスリムに求めるのも現実的ではないだろう。日本の食べ物が、日本で暮らすムスリムだけではなく、世界のムスリムにも安心して届けられる日が来れば良いなとは思っている。そのためには私たちがイスラムの文化を学ぶことと同じくらい、ムスリム自身の「ハラール基準」に対する考え方が変わっていくことも必要なのかもしれない。
- 私が現地に滞在していたとき、タイやマレーシアのムスリムのあいだで豚の毛で作られた歯ブラシが問題になっていたことがあった。この点については、毛など命の無いものについては問題ないとするか、豚に関するものであれば全て禁止とするかムスリムのあいだでも意見が分かれていたが、豚ということで嫌悪感を抱く人は多かった。
- 2018年には増補版が出されている。以下のページからダウンロード可能。https://www.mlit.go.jp/kankocho/page08_000088.html
- キッコーマンやフンドーキンなどが、ハラール醤油を開発してている。キッコーマンのハラール醤油(https://www.kikkoman.co.jp/gyoumuyou/special/post0004/index.html)、フンドーキンのはちみつ醤油 (https://www.fundokin.co.jp/enjoy/halal/about.php)。フンドーキンは試したことはないが、キッコーマンの醤油はふつうに醤油だった。
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