カザフスタン, 中国

国境に閉じ込められる

あれほど大変だった旅は二度とごめんです。

ちょうど2012年頃のことでした。カザフスタンから中国の新疆ウイグル自治区を陸路越えで旅した時のことです。カザフスタンでは、ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(聖者廟)などを見学していました。ラマダン中(断食期間中)で、トルコのビール会社エフェスビールがラマダン明けの食事を施していていました。

トルコの代表的なビール (Amazon) より

我々は断食もしていないのに、ちゃっかり断食明けの食事を頂いたりしていました。お酒の会社が断食の食事を提供するというのは、なんとも皮肉な感じがします。実際、現地の人も食べに来ていなかったので、あまりウケがよくなかったのかもしれません。

当時のカザフスタンでは、入国した後は街なかにある出入国管理局で滞在許可を登録し、出国する時も出国許可を申請して登録せねばならないという手続きがありました。カザフスタンから中国新彊を陸路で国境越えする日に出入国管理局に出向かなければなりません。すぐに出国手続きをしてくれると思ったのですが、手続きが煩雑で、カザフ語は分からないし英語ではなくロシア語で話してくるしで、かなりの時間を要しました。手続きができたのはちょうど昼頃でした。

出国手続きをしたからには、何が何でも今日のうちに出国せねばなりません。出入国国管理局の前には、陸路での国境越えのタクシーが群がって客引きをやっています。長距離なので性能の良さそうなベンツのタクシーを選びました。出入国管理局があるアルマアタから新疆コルガス国境地帯まで340kmくらいあります。出国管理局をベンツで出発し、草原と土漠を猛スピードで駆け抜けます。しかし、道がすごく悪くて、アスファルトもでこぼこです。そして、大きな陥没もあります。悪路をもの猛スピードで飛ばしていくのですから車が横転しないか大変心配していました。16時を過ぎてもまだ着きません。上機嫌だった運転手さんもだんだんと無言になり、急に120kmくらいにスピードを上げて爆走し始めます。そして粉塵のなかから、ようやく見えてきたのが国境でした

「ああ、やっと着いた」と安堵のため息をついたと同時に、「ガラガラガチャーーーーン」と音が。無残にも目の前で国境の門が閉じられてしまった音なのでした。時計を見るとちょうど17:00でした。

今日中に出国していなければならなかったのに、ビザ無しの滞在(不法滞在?)となりました。しかも、もうカザフのお金を使うことがないだろうと現地通貨を残さず、ドルしか手元に残していませんでした。国境の街だからドルでも受け入れてくれるだろうとたかをくくっていたのです。これが災いしました。情報収集のために地元のレストランに行き、食事をしようとしましたが、ドルだから受け取れないとのこと。ホテルを紹介してもらいましたがそこもドルは受け付けず、外人は泊まれないとのこと。「初めての野宿か・・」と覚悟を決めていたちょうどその時、ドンガン(中央アジアに住む回民族)が中国コルガスの国境を越えて帰ってきたところでした。白い帽子を頭の上にのせていたので、ドンガンだとすぐに分かりました。その人に中国語でカザフスタンにいることになった理由や両替が必要なことを話すと、気前よくドルからかカザフスタン通貨に両替してくれたのです。今から思えば、よくこんな訳の分からない外人の持っているお金を両替してくれたなと感心します。こんなときに中国語が役に立つとは思いもよりませんでした。中国語圏の大きさを実感しました。

それで、先ほどの旅館経営者にカザフスタンの通貨を見せて泊まらせてほしい旨伝えました。経営者は、あまりいい顔をしませんでしたが、泊めてくれることとなりました。

この旅館は、昔の隊商のハーン(昔の商館や旅館)をそのまま使った建物でした。薄明りの中で、通された部屋は、40ワットくらいの裸電球しかついておらず、暗すぎて部屋の全体が見渡せません。トイレ電灯がなく、水洗式ですが、水を流すところがこわれているから横にある大きな水がめから水を汲んで流せとのことでした。汲みだす容器もこれまた、プラスチックで使い古してあり、お世辞にもきれいとはいいがたいものでした。

そのような環境に身を置きながらも、くたくたに疲れたので、泥のように眠りました。翌朝、「なんじゃこりゃー!!ぎゃー!!」と旅の同行者からの悲鳴で起こされました。悲鳴に驚いてトイレにかけこむと、同行者が指さす水がめを私もみて「ぎゃああああ」と悲鳴を上げました。楳図かずおのホラー漫画そのものの表情です。水がめのなかに、無数のボウフラがうごめいていたのでした。ボウフラの多さで水がボウフラ色になっていました。ボウフラが水面に近づいたり、水に潜り込んだり。何とアクティブに動くのでしょう!私たちは、その水を汲んでトイレに流していたのでした。

後にも先にもこのようなインパクトの大きかった旅行はありません。考えられない衛生環境に身を置いたお陰様で、この先どんな場所でも横になり眠ることができるようになったといえるかもしれません。そして、やっぱり、困れば誰かが助けてくれる世の中になっている、世の中何とかなると教えてくれた旅だったのかもしれません。中国の国境越えでも色々とありました。それについてはまた機会をみて書いてみたいと思います。

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