タイ南部国境県, フィールドワーク四方山話

タイのイスラーム指導者

タイ王国第18代目のイスラーム指導者であるチュラーラーチャモントリー、アーシス・ピタッククムポン(在任:2010-2023)逝去のニュースを見たのは、2023年10月22日のことだった。日曜日の午後、たまたまX(旧Twitter)を開いたところ、見覚えのあるターバンを巻いた男性の写真が目に飛び込んできた。タイのイスラーム指導者であるチュラーラーチャモントリーだった。折しもハマスに対するイスラエルの過剰な報復がパレスチナの人道危機を招き、犠牲、人質になってしまったタイ人労働者が問題になっているときであった。一気にさわがしくなったイスラーム世界の現状に対して、タイのイスラーム指導者として何かアクションしたのだろうかと記事の内容をよくみると、その日の午前中に息をひきとったという速報であった。

写真:アーシス・ピタッククムポン、チュラーラーチャモントリーのウェブサイトより

私は、18代のチュラーラーチャモントリーを本人に関しては、国際セミナーやイスラーム系大学のMOU締結イベントで挨拶されている様子を遠巻きにながめたことしかない。そのときすでに車椅子で移動していたし、メディアで姿を拝見する限り、体調は非常に悪そうであった。もっと至近距離で見かけたことがあるのは、平和学研究所の教員をつとめ、その後、上院議員になったサーキー・ピタッククムポン、アーシスの息子の方だ。チュラーラーチャモントリーのことを書く前に、バンコクのある街角での思い出をせっかくなので書きとめておきたい。

バンコク都心部のムスリム・コミュニティ

2014年10月、私は細い伝手を頼りに1年のビザをもらい、バンコクにあるチュラーロンコーン大学にもぐりこむことができた。渡航前に天理大学の先生のもとでタイ語を半年間学んだとはいえ、会話は片言状態だった。当然コミュニケーションを取れる相手が限られてくる。当時よく相手をしてくれたのは、受け入れ先の先生のところの大学院生か、大学構内にあった国際NGOに勤めるパッターニー出身のお兄さんだった。

ジムトンプソンの家があることでよく知られる運河沿いのバーングルアや、ラーチャテウィーは古くからムスリムのコミュニティがある。いずれも、チュラーロンコーン大学のあるサイアムのエリアから歩くことができる。BACCと呼ばれるバンコク芸術文化センター(アート鑑賞だけでなくオシャレなお店がそろっていてお土産を買うのにもおすすめ)を左手に、立派なゾウの頭が欄干に付いているチャルームラー56橋(カミサマとして祀られていることもよくあるラーマ5世の56歳の誕生日を記念して1909年に作られた古い橋)渡ったらそこがもうラーチャテウィーである。パヤータイ通りをさらにまっすぐ進んでペッチャブリー道路を渡った先には、モスクがある。

そこまで行くと、ハラール認証のついた店が目立つようになり、タイ語だけでなく、マレーシアとの国境に位置する「深南部」と呼ばれる地域で話されるマレー語のパタニ方言もたくさん聞こえてくる。バンコクにいながらして深南部の空気を味わいたい人にはおすすめである。

パッターニー出身のお兄さんは、当時ラーチャテウィーに住んでいた。私の今は亡き友ニウェーソと同様に、「ニ」を名前に冠する人物、つまり1909年にシャム(タイの昔の名前)に併合されたパタニ王国の貴族の末裔だった1。ある日の夕方、お兄さんと道端のロティ(パイのようなクレープのような食べ物2)屋さんでだべっていた時だった。男の人が2人連れだってやってきて、隣の隣のテーブルにつき、ロティの練乳掛けとミルクティーを頼んでいた。周囲が心なしかざわついていた。チュラーラーチャモントリーの息子だよと、耳打ちされる。

「ニ」のつくお兄さんは、チュラーラーチャモントリーの息子サーキーを嫌っていた。そのお兄さんは、権力に近い人々のことをことごとく嫌っていた人物だったと言った方が正しいかもしれない。サーキーの薄い肌色、顔の作りや雰囲気は、どことなくお兄さんに似ていた。顔が似てるねというと、嫌がるそぶりをとくに見せることなく、そうかもしれないねという。そして「ニ」のつくお兄さんは、彼(サーキー)は2014年のクーデタ後、上院議員に任命されて(クーデタの首謀者であった軍人の)プラユットが首相になることを支持した、そういう人間なんだと、本人に聞こえそうなくらいの声で続けた。そのお兄さんが周囲の顔色を見たり、忖度したりする姿を一度も見たことがない。あの強さを私も見習いたいと思いつつ、10年たったいまも私は豆腐メンタルのままである。

チュラーラーチャモントリーとは誰か

話をチュラーラーチャモントリーにもどそう。チュラーラーチャモントリーはもともと、17世紀に中東やインドとの交易と国内のムスリムにかかわる官職として設置され、1936年までシーア派のムスリムがつとめていた。初代に位置づけられるシェイフ・アフマドはイランの宗教都市コム出身、当時のアユタヤ王国で活躍した。シャイフ・アフマドの子孫の一部は仏教徒になり、現代に続く名家ブンナーク一族として栄えていく。プラヤーチュラーラーチャモントリーは貴族の称号でもあり、1936年までブンナーク家が地位を保持した3

行政上の役職としてのチュラーラーチャモントリーは「1945年イスラームの擁護に関する勅令」から始まる。イスラームの代表でありタイ国王のイスラーム問題に関する顧問として、チュラーラーチャモントリー職を設置するとともに、内務省及び教育省の助言機関としてイスラーム中央委員会と、一定数のムスリム人口を擁する県に県イスラーム委員会の設置が定められ、末端に村落部のモスクを位置付ける現代にいたるイスラーム行政の基礎がデザインされた。

戦後のチュラーラーチャモントリーの面々を見ていただければお分かりのように、ムスリムの人口がもっとも多い地域でもある深南部地域(パッターニー、ヤラー、ナラーティワート県)の出身者がチュラーラーチャモントリーに選ばれたことはない。深南部にはチュラーラーチャモントリークラスの知識と教養、指導力を兼ね備えた人物がたくさんいたし、バンコクとは地理的に離れているということもあって、チュラーラーチャモントリーの影響力が強かったというわけでもなかった。さらに2004年に深南部で紛争が激化したことによって、タイのイスラーム行政や、その長であるチュラーラーチャモントリーの役割は安全保障の観点からも注目を集めるようになっている。

戦後の歴代チュラーラーチャモントリー

第14代 チェーム・プロムヨン(1945-1947、サムットプラカーン出身、エジプトで教育)
第15代 トゥアン・スウォンサート(1948-1981、バンコク出身、メッカで教育)
第16代 プラサート・マハマド(1981-1997、バンコク出身、メッカで教育)
第17代 サワート・スマーンヤサック(1997―2010、チャチェンサオ出身、メッカで教育)
第18代 アーシス・ピタッククムポン(2010-2023、ソンクラー出身、パッターニーで教育)

1997年に制定された「イスラーム組織運営法」でチュラーラーチャモントリーは、全国の県レベルのイスラーム委員会のメンバーの投票によって選ばれることになっている。現在、イスラーム委員会を設置する県の数は40まで増えた。今回、投票する権利をもっていたのは全国816人のイスラーム委員である。はじめの候補のなかには深南部出身者もいたものの、最終的に残った3名の候補は、①アルン・ブンチョム氏、②プラサーン・シーチャルーン氏、③ウィスット・ビンラーテ博士であった4

Nation TVのニュースより。タイ国民の関心の高いニュースだとはいえないものの、いくつかのメディアで報じられていた

2023年11月中旬、琉球大学で開催された国際セミナーに参加する機会を得て、わたしは修学旅行以来およそ20年ぶりに沖縄の地に降り立った。そこに集っていた深南部から来た先生たちに、次期のチュラーラーチャモントリーは誰になるだろうと聞いてみたら、おおかた元々のラインに戻っていくだろう(バンコクの指導者のなかから選ばれるだろう)という予想であった。第18代のアーシスは、初の南部出身者であったが、ソンクラーにかつてあった王国のアラブ系スルタンの系譜であった。

先生たちの予想通り、2023年11月22日におこなわれた投票で471票の得票をもって選ばれたのは、バンコク・イスラーム委員会の長を務めたアルン・ブンチョムであった。果たして、タイ国内最大のムスリム人口と、タイ政府と半世紀以上にわたる対立を抱えてきた地域でもある深南部から、タイ国のイスラーム指導者が選ばれるときは訪れるのだろうか。タイには現在77の県があるが、今後、イスラーム委員会を設置する県が増えれば増えるほど、深南部とそれ以外の地域のムスリム人口1人当たりの一票の格差は広がるばかりだろう。さらに深南部紛争が政府や深南部以外のタイ人(仏教徒もムスリムもそのほかも)にとって「脅威」とみなされなくならないかぎり難しいだろうとも思う。タイのムスリムを代表する指導者である19代のチュラーラーチャモントリーが、深南部問題にどのように向き合っていくのか注目していきたい。

  1. トゥアン、ニ、ウェ、チェを名前の前につけることができる人物は、パタニ王国時代のオランカヤ(王侯貴族)とのつながりがあることは広く知られている。
  2. マレー語でロティはパンを意味するが、タイでロティを売っている場合(売っている人はムスリムの場合が多い)だいたいマレーシアでいうところの「ロティチャナイ」を指している。ロティチャナイは、バターがたっぷり入った生地を薄く延ばして何層にも重ね焼いたもので、ふわふわしているけれどサクッとした触感もあり、カレーのスープをお供に食べるとおいしい。卵を入れることもできる。砂糖や練乳をかけて食べると、おやつのようにもなる。
  3.  もう少し詳しく知りたいなという方はぜひ、拙著『イスラーム改革派と社会統合』第3章を参照にしていただければと思う。
  4.  アルン・ブンチョムはバンコク出身、マディナ・イスラーム大学(ハディース学)とスコータイ・タンマティラート大学(国際関係学)で学士号を取得し、私立イスラーム学校の教員やバンコク・イスラーム委員会の委員長を務めた。プラサーン・シーチャルーンはバンコク出身、マディナ・イスラーム大学(イスラーム法学)で学士号を、バンコク・イスラーム委員会の委員長やチュラーラーチャモントリーのオフィスの専門委員を務めたこともある。ウィスット博士はソンクラー出身、エジプトのアズハル大学でアラビア語学の学士号を取得のち、マレーシア国際イスラーム大学でアラビア語学の修士号を、タクシン大学で文化学博士を取得し、ソンクラーを中心に南部で活躍してきた。

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