フィールドワーク四方山話, ミャンマー

赤痢になりました(前編)

列車から私が観ていた風景。線路は子供の遊び場である。自転車よりも遅いときもしばしば。

【細菌性赤痢】細菌性赤痢とは赤痢菌によって引き起こされる感染症のことです。症状としては40度近い高熱が出て腹痛や下痢が続きます。この感染症は、感染症予防に関する法律で保健所に報告義務があり、この患者が発生した場合は速やかに隔離病棟に移動させ強制入院させる必要があります。治療としては抗生剤治療をおこない細菌が除菌されるまでおこないます。(ホスピタ「細菌性赤痢」)

思い当たるのは一杯の水だが、本当にそれが原因だったかは今でもわからない。

2003年8月、大学4年生の私はマンダレーにいた。卒業論文で、マンダレー近郊で行われるという精霊儀礼を取り上げようと思い、それを調査しに来たのだ。感染症の知識は『地球の歩き方』で仕入れていた。10日程度の滞在とはいえ、水と生野菜には注意していた。そして、マンダレー最終日になった。お世話になっていたご家族が、調査から戻り疲れ切った私に一杯の水を差し出してくれた。それはミネラルウォーターではないことは明らかだった。各家庭には井戸水を、飲み水用として溜めてある水甕があり、その水なのだ1。日本人のような普段衛生的なものしか口にしていない人間が飲めば、一発アウトかもしれない。そして、いつもは残っていた自分のミネラルウォーターもこのときだけは飲み干してしまっていた。

グラスに入った一杯の水を飲むべきか逡巡した。一刻も早く水をくれという疲労困憊の顔をしているのに「喉が渇いていません」はおかしいんじゃないか、あるいは「病気が心配なのでミネラルウォーターしか飲まないことにしているんです」と正直に言うべきか。病気を心配するということが、婉曲的に「ミャンマーは衛生的でない。菌とかがうじゃうじゃいそう」ということを伝えているようで、気が引けた。ミネラルウォーターばかり飲んで自分はいつも安全なところにいて、それでいて、やれ儀礼に連れて行けだの、ミャンマー文化に興味があるだの言って、ほしい情報だけはちゃっかりもらう、というのが貴族のようなことをしている気分になっていやだった。かと言って、この水を飲んで、「私もあなたたちと同じですよ」というポーズをするのも、それはそれで欺瞞ではないか。こんなことをぐるぐる考えながら、結局私は「いりません」と言えなくて、この水を飲むことにした。くせのないおいしい水だった。

水を飲んだその日はマンダレーに宿泊、翌日鉄道にてヤンゴンへ向かい、車中泊。翌々日の朝にヤンゴン着、ヤンゴン泊。その翌日に帰国という予定だった。万が一何かに感染してしまっても、すぐに日本なわけだし、大丈夫だろう。そう思うことにした。

噴き出る脂汗

昨夜からとくに体調に異変はなく、マンダレーを発つ時間になった。ちょうど正午出発の鉄道だった。ヤンゴンには翌朝7時ごろに到着予定。中等席はたしか30USドルぐらいだっただろうか。一人がけのゆったりしたリクライニングシートに身を預け、マンダレーでの怒涛の日々を振り返っていた。窓を開けて、暖かい風を感じる。出発前は不安しかなかったが、終わってみれば充実していた。すべてはマンダレーで暖かく迎え入れてくれた人々のおかげである。

しかし、ようやくヤンゴンに戻るという安堵感で胸がいっぱいのはずなのだが、どうしても昨晩の「水」が気になって仕方がない。私は、異常なほどに自分の胃に神経を集中させて、「まだ痛くない」「このまま何事もなくヤンゴンに着きますように」と祈るような気持ちでいた。

しばらくは大丈夫だった。食欲もあったし、途中で販売される焼きそばか焼き飯のようなものも食べた。しかし私の祈りはあっけなく裏切られた。明らかに通常とは異なる便意を徐々に催してきたのだ。気のせいと思い込むには無理があるくらい、この便意は主張してくる。下痢に特有の便意である。

そしてもう一つ頭を悩ませたのが、トイレ問題だ。というかこの問題の方が大きいかもしれない。もちろん下痢や嘔吐はそれだけでもものすごく辛いのだが、トイレが日本ぐらいきれいだったら、とにかく自分の体調にだけフォーカスを当てていればよい。ミャンマーの公共の場所のトイレはマナーの問題や、設備の古さの問題であろう、明らかに清潔に保たれていないのだ。そしてどこの誰ともわからない人々が長年にわたって使ってきた汚れが目に見えて大量にこびりついているのだ。とくに潔癖でもなく、掃除が大の苦手の私が卒倒しそうになるレベルである。トイレットペーパーがなく、備え付けの蛇口から出てくる水で大でも小でも洗い流すというシステム自体は、本当はいやだけど、別にもういい。ティッシュさえ持ちこめばなんとかなる。それよりも年季が入りすぎた、掃除が不十分であろう便器が問題なのだ。そして鉄道のトイレは、私がいろいろ見てきたトイレの中でもトップレベルの風貌だった(ちなみに下は完全に抜けており、線路が見える。汚物はすべて外に放り出される仕様になっていた)。

それにしてもトイレが汚いだの、使いたくないだのと言いながら、一方で水を一杯飲んだだけで「私はあなたたちと同じですよ」と言った気分になるとは、我ながらなんて浅はかなのだろうか。ダブルスタンダードもいいとこだ。とにかく私の場合、ミャンマー滞在は常にこういう自分の偽善的な部分と向き合わざるをえず、楽しい反面、メンタル的にもこたえるのだ。

バックパックから日本から持ってきたビオフェルミンかなにかの胃腸薬を取り出して、飲んだ。少しはましになるだろう。そんな思いすらかなわず、腹痛と便意は収まらなかった。結局ひっきりなしにトイレに駆け込むわ、さらになんだか頭も痛くなってきて、寒気もしてきたわで、この数時間のあいだに体調が激変してしまったのである。もうここのトイレは行きたくない、一秒でも早くヤンゴンに着いてくれ。不定期に襲う便意に怯えながら、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。

列車から私が観ていた風景。線路は子供の遊び場である。自転車よりも遅いときもしばしば。
車窓からの眺め。線路は子供の遊び場でもある。自転車より遅いこともしばしば。
列車の縦揺れもその都度便意を強く刺激し、生きた心地がしなかった。(2009年7月撮影)

マンダレーから生還

ヤンゴン駅から宿までは元気なときなら徒歩で10分かからないぐらいなのだが、この下痢(すなわち強烈な便意)、腹痛、発熱、吐き気の苦しみのなかでは途方もなく長く、遠く感じた。しかも背には荷物がパンパンに詰まった、鉛のように重いバックパックである。便意を極限まで我慢しながら、足を震わせて、よちよち歩きの赤子のごとく、片足ずつをなんとか気力で前へ押し出すしかない。

全身から脂汗を噴き出しながら、這うようにしてようやくホテルに到着した。マンダレーへ向かう前に利用していたのと同じ宿である。見慣れた顔のスタッフを見つけると、バックパックをほっぽり出して、一階のレストラン内にあるトイレに一目散に駆け込んだ。ヤンゴン駅を出てからもうずっと限界を超えた状態だったのだ。

トイレから出てようやく落ち着き、仲の良いスタッフに自分の今の状態を伝えた。そして日本の薬はまったく効かないから、とにかくよく効く薬がほしい、病院に連れて行ってほしいと懇願した。藁にもすがる思いである。彼は私に同情して、近所にあるクリニックの女医さんがとても優秀だから、そこに連れて行ってあげるよ、ということになった。宿のスタッフも全員がよくお世話になっているという。

やさしそうな女医さんだった。午前中だというのに、窓がなく日の光も入らず、さらに停電中のために薄暗いなかローソクの灯を頼りに患者を診察していたのには絶句してしまったが。しかも言っておくが、首都ヤンゴン(当時)のど真ん中の話である。ここでも、ビルマ語でうまく症状が伝えられない私の代わりに、同行した宿のスタッフが説明してくれて、本当にありがたかった。

便利だなと思ったのは、薬局に行かなくてもクリニックで全部薬を処方してくれる点だ。たぶん下痢、食あたり、というミャンマー人でもよくある症状に対する薬なのだろう。それにしても予想以上に大量の薬を処方されて、圧倒されてしまった。どれが何に効くのかはさっぱりわからないが、言われるままに飲むことにした。すべて錠剤なのだが、どれもそのまま飲み込んだらのどに詰まりそうなくらい大きかったのをよく覚えている。割って飲むらしい。ずっとあとに人から聞いた話では、薬はほとんどインドからの輸入だそうだ。たしかにこれは効き目がありそうだ。そしてこれも感動したのだが、宿に戻ると、同行してくれたスタッフが大量の複数種の薬を一回分ごとに袋にすべて小分けしてくれた。

薬を飲み始めてから、徐々に嘔吐と下痢の回数は減り、ベッドに横になって短時間でも眠ることができた。悪寒も消え、夜にはかなり体が軽くなっていた。この調子なら、空の上でトイレにひっきりなしに駆け込むというような最悪の状況だけは免れられそうだ。

その晩はヤンゴンに一泊し、翌日、宿のみんなにお礼を述べて、ようやく帰国の途に就いた。

(日本編・後編へ続く)

(文:山本文子)

  1. 路上にも通行人の水分補給用に置かれていて、その自宅版。

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