カンボジア, フィールドワーク四方山話

テイスト・オブ・オヤツ

じぶんのフィールドのことを気軽にだらだら書いてみる。

カンボジアの山がちな地域で、ラオスやベトナムとの国境に近いラタナキリ州というところに滞在していた。おおくのカンボジア人は自分の国の果てだと思っているが、そこをホームランドと思い定めてほそぼそ暮らしてきた人たちもいて、別のことば、ちがった生活習慣がある。いわゆる少数民族で、わたしが身を寄せたのはクルンと名乗る人たちの村だ。

ポツンと畑の家

畑に行く

みんな焼畑で米をつくり、あとはカシューナッツを育てて売って暮らしている。集落からひと山かひと森、あるいはもっとむこうという距離の先に畑をつくっている。集落の放し飼いの豚が荒らしにこない距離が要るのだそうだ。けわしい山というのではないが、集落の外に出てしまうと平らな地面がすくなく、どこもちょっとナナメかだいぶナナメだ。みんな一番安いゴムぞうりですいすい歩くのがかっこいい。わたしもマネするんだけど、しょっちゅう足がぐにっとなる。マイバイク(115㏄、町で中古のを買った)で行くときも、ケモノ道っぽいのが雨季にズブズブにぬかるむから、最初のころは派手にこけてばかにされた。居候していた家族は幼い子どもがたくさんいて、かれらのバイクは3~5人乗りで出かける。わたしの運転ではさすがに子どもは乗せられなかったけれど、大の大人2人乗り3人乗りで石ころ木の根に車輪をとられてよろけながら畑によく行った。源義経のひよどり越えみたいなことをみんなバイクで平然とやる。

バイクで行けないところはない?

どこの家も畑の家をもっている。外観はでかい小屋なのだが、蚊帳があり酒壺もありセカンドハウスというおもむきだ。ニワトリもヒヨコもたくさんいるしネコもいる。申し分ない生活空間で、そこだけ人の声と物音、動物の鳴き声で賑やかだ。が、大声で叫んでも隣の畑に聴こえることはない。うっすらこわいような人口密度のひくさだ。どこの畑でも、ナナメの地面をずんずん降りていくと小川に突き当たる。洗濯も水浴びも魚とりもする。プライベートビーチならぬプライベート小川だ。

洗濯も水浴びも

犬もいっしょ

どこの家も犬が数匹いる。狩りが好きな飼い主だとよい猟犬が輩出するみたいだ。でも、そうならない凡犬がおおい。首輪や紐をつけるという発想はないので、犬は勝手にどこへでも行けてのびのびしている。

家風みたいなもので、犬をよくかわいがる家がある。私が居候した家がそうで、ヤボンという大柄なメスの犬がとくに愛されていた。亜麻色の毛をして健康そのものに見えた。ヤボンは後ろ脚で立ちあがって人の顔にじぶんの顔を近づけようとするくせがあり、人がこれを受けとめて少しかがんでやるとこれでもかと顔をなめてくる。もっとも、ヤボンのためにわざわざ顔をなめられてやろうという人は、その家のお母さんのヴェーンさんぐらいだった。わたしもそこでは家族同然によくしてもらっていたので、そのうちヤボンはわたしの顔もなめにくるようになった。

わたしは一度も犬を飼った経験がなく、犬がじぶんになついてくるというのが新鮮で面白かったので、二人目のわざわざ顔をなめさせる相手になった。さて、そうなってみると心なしかヴェーンさん以外の家の人たちの目がやや冷ややかな気がした。キタナイとか神経質なことをそうそう言わない人たちなのにどうしてだろうと思ったが、わたしはあまり気にしなかった。

ヤボンは畑にいることもあった。バイクをあまり好まないヴェーンさんとヤボンがてくてく畑への道を歩いていくのを見かけたし、彼女の息子がバイクに乗せることもあった(運転手の股の間に立ち、前脚をハンドルのへんにかける)。

畑の家と家族のみんな

ところで、排泄はそのへんの林や藪に入ってする。あまり人がこなくて、尻をふくのに手頃な葉っぱがたくさんあるところがよい。集落だと放し飼いの豚が寄ってきて、尻の後ろ1.5mぐらいのところで待っている。事が済むとそんなやつは振り返らず立ち去るが、2,3歩もしないうちにがっついているので独特の咀嚼音を聞かないわけにはいかない。

ある日わたしは畑で便意をもよおした。畑のまわりはだいたい藪なのでどこでも好きなところでという感じだ。豚がいないのもいい。何気ないふうに畑の家を離れて歩きだす。でもヤボンがついてきた。わたしが立ちどまるとヤボンも立ちどまる。「ヤボン、ぼくはウンコしにいくんだからついてこなくていいよ」と目で話しかける。ヤボンはつぶらな瞳にしっぽをふって答えてくる。わかってないみたいだ。かまわず歩いていくとやっぱりついてくる。

いい藪が見つかったのでズボンをおろしてしゃがむ。そのへんにいるのかもしれないが、ヤボンの姿は見えない。用が済む。ガサガサ藪の外に出る。入れ替わりにガサガサ藪に入る影は、ヤボン!あ、「ムシャムシャムシャ。」

わかってないみたいじゃなくて、ヤボンはわかっていたのだ。そう、わたしがおもむろに畑の家を出たときから。わたしのほうがわかってなかった。知らなかったし考えてもみなかった。

顔じゅうベロベロなめまわされるのを冷ややかに見られていたわけもわかった。その後、別の家を訪ねていたとき、2歳ぐらいの幼児があんまり犬とベタベタじゃれあっていて、お守りをしていたお兄ちゃん坊やが犬を引き離し口をへの字にむすんで一言。「犬は人の糞を食う」。含蓄あることわざのように諭していたのがおかしかった。

ソレは、オヤツという位置づけかもしれない。主食はというと、ここらの人間とだいたい同じだ。順番は人間が先で、板張りや竹張りのなんてことない床にまず皿がじかにおかれる。人の輪が皿を囲むときだけその内側の床板が「食卓」になる。わたしたちはご飯、魚、野菜をゆでた汁物なんかを食べる。犬たちは同じ床の上で少し離れておとなしく待っている。大きい骨はポイっと後ろに投げる。犬がぱっと食べる。わたしたちの食事が終わる。すると皿に代わって大ざるがおかれ、残ったご飯とおかずをそこにあけて、水をかけてシャバシャバにする。「ニィニィニィ」という掛け声で犬たちが大ざるに集まり、ふたたびそこに「食卓」ができる。

味わうということ

なんかこういう感じで、人と犬はかなりいっしょに生活そのものを味わっている。こういうふうに味わえているというのは、美味いとか不味いとかとはまた別のことだ。そして、味わいなら、オヤツが主食よりひくいとは言えず、むしろまさることがあるだろう。くりかえすが、美味い不味いではない。オヤツというのは、よりわがままに味わおうとするものではないかということだ。

ヤボンがわたしやヴェーンさんの顔をなめまくるのは、人一般でなくヴェーンさんやわたしを味わおうとするからだし、そうされることでヴェーンさんもわたしも犬一般でなくヤボンを味わう。これはかけがえない固有を味わいたいわがままがあってオヤツ的だ。ヤボンが味わったあの藪のわたしのソレだってそんなオヤツだったと思う。

村の宴会(筆者もいます)

(文:井上航)

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