カンボジア, フィールドワーク四方山話

よく噛んで味わう

おかず準備中

このまえわたしは、オヤツのテイストについて語った。今回はその糸がつながる先をたどるようにして、もっとよく噛んで味わおうという話をしよう。さっそくだが、へたな詩をかいた1。それがオソロシイとはおもっていないので、読んでほしい気持ちだ。

アワアワ


最初からわかっていたことかもしれないし、
これからもずっとわからないことかもしれない。
 
心と言うのと
霊と言うのとで
ちがう。
心はじぶんでじぶんの内がわを
わかってるみたいだ 気にくわない。
霊はじぶんとはどこふく風
ワタシのなかにあったとしても
ほどかれないあわあわした包みだ
その秘密はワタシのではない。
 
入ってくるし、出ていく。
 
霊はどっかからやって来て ワタシに
入ってもいい 出ていってもいい
好きにしてくれたら。
 
ええっと、ね、
出遭いと別れを引き受けるワタシはいない。
出遭いだ、別れだというときが、ばらばらにある。
それぞれを憶えているということが、
ワタシはいなくても、
入ってくる包みのあわあわにふくまれているふしがあり、
出ていく包みのあわあわにもふくまれているふしがあるから
どうにかなっていく。

カンボジアのクルンの村でのフィールドワークは、アウェイな場所に身をおくことだ。もっとも、わたしは日本にいてもアウェイだと感じることがおおいし、どちらの場所もちがったようすでアウェイともホームともおもえるという微妙さがある。ひとが何かにつけホームと言いアウェイと言うのは、ひとが自己同一性をもとめるからだろう。今回はおもに身体的な次元でこれにまつわる話だ。あつい・さむい・いたい・ふれたい・ふれたくないなどの知覚的な欲望によってひとはじぶんがじぶんだと感じる。じぶんの身体をもってじぶんだとする自己の同一性。好き嫌い、これこれの知覚が許容できるか。その感じかたはきのうもきょうもあしたもそう変わらないだろう。おなじ身体だから。それがじぶんだ。そういう自己同一性だ。

この身体的な同一性の感じかたが、身をおく場所や状況でいくらか変わることがある。もちろん、ふつう日常的には変わろうとしないけれど、とおいくにのひとたちと仲よくしようとおもい立ち、参与観察なんぞをしてみると、あれ、変わったな、あれ、戻ったな、というのがある。これはアウェイを親密にしていくことで、身体に何かがおこるのだ。

それは感じに襲われることからはじまる。視覚や聴覚がびっくり、触覚、嗅覚、味覚なんかが、やられた、まいったとなる。なんというか、ものがカラダにじかに入ってくる、そして出ていく体験だ。

ある日のごはん

居候していた家での話。世帯の主のおじさんと、おばさん(前回紹介したヴェーンさん)がいて、息子たち、娘たちがそれぞれの妻や夫とともにいて、そのちいさい子どもたち(ヴェーンさんからすると孫たち)がいて、ひとつの世帯だ。きょうだいどうしやいとこどうしのちいさい子どもたちの人数はとてもおおい。でも、世帯全員がきっちり勢ぞろいで何かをすることはあまりなく、息子夫婦、娘夫婦のいわば核家族がまとまっていて、世帯のほうはもうすこしゆるいつながりのようだ。

畑にいったある日のこと。たしか雨季の終わりごろ、9月ぐらいだったか。その日は、わたしとは顔をあわせる機会がなぜかすくなかったレッチナーちゃん(当時6歳ぐらい)とアッカラーくん(当時2歳ぐらい)の姉弟といた。ふたりともわたしの前ではちょっとよそよそしい。わたしもくだけてなかったかもしれない。だれにでもあるひと見知りというやつだ。

なんだかなあという感じで、それでも顔をあわせているのは、ごはん時だったからだ。お昼だ。畑の家の入口から見える外はとてもあかるい。白飯の皿、おかずの皿、どちらも浅いスープ皿だ。おかずはその日あるものでつくる。畑では、かぼちゃの茎のゆでたのや、ひょうたんやへちまの若い実を煮たのをよく食べる。動物性のものはないときもおおいが、畑のまわりで何か獲れればおかずにまぜる。小川の魚やかえるが定番だ。何がきてもひとつの鍋で野菜類といっしょに煮ることがおおい。何がきても調味料は塩とグルタミン酸ソーダとトウガラシだ。さて、その日の動物性のおかずはねずみだった。そのときはまだ知らなかったが、ねずみもそこそこ日常的な食材のひとつだ。

わなにかかった、無念。

ばねではさむわなを野外にしかけておくとねずみがとれる。野ねずみのたぐいだとおもうが、わたしはくわしくない。何種類かあるとおしえられた。まず、腹をさいて腸などをすてる。にわとりがそれをついばむ。次に、家の入口あたりに焚火をおこして、ねずみの表面の毛を焼けコゲにする。ナタの背などでコゲをこそぎおとす。つるつるの皮膚のはだかねずみになる。水洗いして、頭からしっぽまでおおまかにひと口サイズぐらいのこま切れにする。切れはしごとに骨はついたままだ。家の奥の火にかかった鍋にいれる。ヴェーンさんの娘のコンさんと夫のンガーンさんがつくってくれた。レッチナーちゃんとアッカラーくんはふたりの子どもだ。その日はこの核家族といっしょにお昼をいただいたのだ。

ねずみは、燻製にちかいバーベキューの切れはしをつまんだことがあったぐらいで、しっかり食べるのははじめてだったとおもう。ところで、わたしは母がきびしくてちいさいころから絶対に好き嫌いはゆるしてもらえず、ちょっとでもおいしくなさそうな顔をするだけでおこられていたので、ものによらず、味によらず、何がでてきても「おいしい」と明言して、おいしそうに食べる習慣ができていた。じっさい好き嫌いはない。これがフィールドワークで役にたっている。日本では食用からほどとおいとされるものでも、おおむねうまそうに食べることができる。うまそうに、あるいは何くわぬようすでというのがポイントだ。会食の場で、まずそうにしているひとを見ると、こっちまでまずく感じてしまう。だからわたしのばあい、何くわぬ顔さえもできないとおもったときが、食べられないと言うときだ。ねずみは、とりあえずふつうに食べることができた。

こりんこりんにやられる

そんな、がまんしておいしそうなふりをして食べるのは、かえって失礼じゃないかと言うひともいるだろう。半分当たっているとおもう。でも、まずは食べてみる。だいたいうまいかまずいかなんて、あやふやじゃないだろうか。うまい・まずいの判断は保留して、食べつづけていたら、そのうち舌やあごやのどが親近感をもつときがくる。そうなると、うまい・まずいはあいかわらず別かもしれないが、ためらいなくもりもり、むしゃむしゃ食べていることだろう。そういうちょっと先の未来の舌やあごやのどの動きの気持ちを先どりしてじぶんに示して、うまそうに食べてみる。クレジットカード払いでひとまずレジをぬけるようなものだ。

ねずみのばあい、体積がちいさいので、肉がすくなく、口に入れるとつねに皮の比率がたかいと感じる。皮のあたりというのは、その動物が生きているときからほのかにただよわせているにおいが、煮ても焼いてもしみついている(たぶん)。水牛しかり、にわとりしかり。その動物の風味の特徴は皮のあたりにつよくでるのだ(たぶん)。ねずみ肉、もれなく皮つきなので、風味はくる。が、生きているねずみのにおいをかいだことがないのでもうひとつぴんとこない。あぶらはすくないので、ファットでリッチなコクは皆無。へんな言いかただが、ひとことで言えば貧相な風味だ。食べなれていって「うまい」となるだろうか、あるいは、「これはこれで」ぐらいか。あと、何の肉でもそうだが、無心に肉だなとおもうのは後肢のモモだ。筋肉の繊維感がほどよい。

これだけだと、ねずみ肉の風味のぼんやりした印象だ。食べはじめの印象はそんなものだ。何くわぬ顔でもぐもぐ、あごを動かしていても、もうひとつ味わいが像を結ばない。味わいの像がちゃんと据わってあごやのどが動く、すなわちチャリン、チャリンと現金払いしているような実の入った味わいかたになるには、もうひと押しだ。

さて、さっき書いたように、レッチナーちゃんアッカラーくんとわたしは、その後だいぶなじんだのだが、当時そんなに親しくなかった。だから、食事で顔をつきあわせているのだけれど、もくもくと食べていた。しぜん、皿とスプーンがかちかちふれる音や、汁をずずっとすする音を聴いている、というようすだったんだろう。そんなときだったから、あの音もはっきり聴こえたんだとおもう。

「こりんこりんこりんこりん」。

聴きなれないものだから、ふと顔をむけた。レッチナーちゃんがちょうど、ねずみのしっぽをすすっと口に入れて(めんを一本すいこむような感じで)、ちいさなあごを動かすところだった。こりんこりんこりんこりん。

ごめん、ちょっとだけ、うわ、とおもってしまった記憶がある。わたし、じっと見つめたりしなかっただろうか。レッチナーちゃんと目が合ったかどうかはおぼえていない。わたしはすぐに目をじぶんの皿のほうに戻して、何ごともなく食べつづけた。うわ、とおもったけれど、これは本当に、ちょっとだけだったはずだ。畑の家の入口の外はいつものあかるい昼だったし、ひよこはピヨピヨ、にわとりはコッコッコ、家のなかは煮炊きの煙が白くたなびいて、屋根のやぶれ目からもれてさしこむ日の光も白いビームになっていた。いつもののどかさだ。そこでみんなであったかいお昼ごはんを食べていた。ひとをすこやかにはぐくむ時間が流れていた。

ふしぎと言えばふしぎ、当然と言えば当然だが、「いい音だな」とも感じたのだ。わたしはじぶんの皿のなかを探した。しっぽ、入ってる。まだじぶんの感覚は混乱していたとおもうが、よし食べようとスプーンですくいだし口にふくむ。みじかい骨がたくさんつながっていて、包んでいるぶあつい皮?肉?まあ皮かな、これはかなり弾力があるようすだ。骨をかみつぶすつもりであごに力を入れると、ちゃんと咀嚼できることはわかったが、気持ちがもうひとつかろやかでないからだろう、こりんこりんとはいかなかった。

屋根ごしの光のしたで

よいミメーシスの霊

その後しだいにおもうようになった。そうだ、あれがねずみの味わいの「もうひと押し」を埋めるピースだ、あれは実感をつくるものになるだろうな、こりんこりんいけるようになれば。その後もねずみはたまにおかずにでて、わたしは頭からしっぽまでよく噛んで味わう。やはりあまりうまいとはおもわないが、味わいの像はしだいに定かになっていると感じる。それは、ごはん時がそのつどすこやかな時間のなかにあって、その気分の霊のようなものがそのつどわたしのなかに入ってくるからだし、「こりんこりん」の音の霊のようなものがそのつど呼びだされ、わたしに入ってきてわたしを導こうとするからだ。

日本に戻ると、わたしはねずみを好きでない昔からのわたしに戻る。だがふしぎなことに、むこうにいくとまた、ねずみを味わおうとなる。自己同一性なんてららーら、ららららーら♪(吉田拓郎のあのメロディで)――意志や責任をにないうる「ワタシ」はかんたんに否定できないけれど、「ワタシ」のよわさをあらわにして、ふらふらの無用者になるつもりで味わいに埋没することもたいせつな探究だ。

「こりんこりん」にはやられた。外の音だったものが、ふとしたことで身体のリズムに入りたがり、わたしの聴覚・触覚・味覚が「こりんこりん」したい、となるのだ。似姿をもとめること、模倣すること、すなわちミメーシスのいとなみから、精霊がうまれる2。身体に何かがおこる。精霊におどらされ、ワタシがむしろそらごとだと知らされ、ときを味わわせてもらうのだ。「こりんこりん」はよい霊だ。よく噛んでいこう。

(文:井上 航)

  1. ある長年の友人とのメールのなかでこの詩ができた。友人とは今回ここに書いた話とはまたちがった話をしていた。ここにのせた詩ももとバージョンと若干ことなっている。また、今回の文章のなかでは友人のふとした言いまわしをひとつ借りている。友人にはおしゃべりにつきあってくれて感謝だ。
  2. 参考として、マイケル・タウシグ著『模倣と他者性』(井村俊義訳、水声社、2018年〔原著1993年〕)。この本を読むと、模倣がひとをうっとりさせることと、精霊をありありとおもうことの密接な関係について考えさせられる。

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