番外編(日本)

官邸前に行ってみた-その1-

市とか路上とか

「粗末な草ぶきの市屋が数棟たちならび、なかの一棟には一人の乞食が宿り、かたわらに三匹のやせ犬が遊び、カラスが四羽その軒下で餌をあさっており、やや遠景には放牧された牛がいる。(中略)人家など一軒も見えない」。これは『一遍上人絵伝』に描かれたある市(いち)の絵図を西郷信綱氏が言葉で描写しなおした文章で、何もない「無主荒野」に市が立ちはじめたときはこんなようすだという例だ。西郷氏は同じ本で、また別の市のようすを『常陸風土記』から引いている。「村の中に浄泉あり。俗、大井といふ。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川と成れり。夏の暑き時、遠近の郷里より酒と肴を持来て、男女会集ひて、休ひ遊び飲み楽しめり。その東と南の海辺に臨む。アハビ・ウニ・魚貝等の類、いと多し。西と北とは山野を帯ぶ。椎・櫟・榧・栗生ひ、鹿・猪住めり」(西郷信綱著『古代の声(増補版)』、朝日選書、1995年)

西郷信綱著作集(第4巻) 萬葉私記・古代の声 [ 西郷信綱 ]

価格:9,900円
(2020/10/31 11:59時点)
感想(0件)

むかしの市というのは、とても楽しそうだ。空いているスペースを、とくに所有権とか言わずに、使うときは自分たちのものにしてしまう。これがふつうだと、このように楽しいのだ。本来人間にはそういう自由があって、どこそこに勝手に入るなとかの法は後からできたにすぎない。前から書いているカンボジアのクルンの人たちなんか、いまでも半分以上はそういうふつうを生きているので、かれらの背中からそういう感覚を豊富におそわり、思うところがおおい。

官邸前でパチリ

そんなことを思いながら、べつに法を破ろうというのではないが、どうってことないことなのだが、首相官邸前の路上に立ってみた。法といえば、あたらしく官邸の主になった人のほうがけっこうな破りかたで法を破ったのではないか。あらためてそう思った。はじまりはユーチューブで著述家の菅野完さんのハンガーストライキをたまたま知ったときだ。

学術会議に内閣総理大臣がもっている人事権は、一方的な人事権。羈束性があると行政用語で言いますが、推薦されたものをただただハンコをついて認めるという権限しか認められていません。99名が任命されたことも、6名が任命拒否されたことも、内閣総理大臣の裁量が働いている段階で、もはやそれはすべて非合法なんです。この内閣はその非合法を承知の上でやってるんです。(中略)連中は何を言っているかというと、我々は選挙で選ばれたから、法律なんか関係ないって言っているんです。法律なんか関係ないって言っている無頼漢に対抗するのにペンの力に頼っていられますか皆さん。

2020.10.12. 菅野完氏の官邸前スピーチから―

行ってみよう

動画をみたとき、わたしは「うつ」のなおりかけで(いまもそうだ)、ちょっとでもアクティブに動けるとそれだけでうれしいという状態で、髪なんか寝起きの小澤征爾かというぐらいどうしようもなくボサボサで妖怪じみていた。上に貼ったもののほかに、一人で述懐する菅野さんの動画がいくつかある。訥々をとおりこして沈黙を黒々と流しこむようなしゃべりとたたずまい、野良の飢えが光っているような眼(路上でハンストしてるからこの表現は「そのまんま」だが、それだけってこともないだろう)。菅野さんの姿もまた、ひとに対していうと失礼だが、妖怪っぽかった。しかししかし、妖怪は賛辞だ。風景を異化する存在の意義にみちみちていた。

菅野さんはハンストを宣伝もせず一人でやっていて1、デモのような群集する方法とはあえて距離をおいているという。個の行動に力点をおいているのだ。そして、誘い合わせるでもない、互いに目を合わせさえしないような個人がポツポツやってきて、官邸に向かって静かに立って本を読む動きが同時に出てきているという。菅野さんはもちろん、みな知らないどうしで、かってに一人できてかってに一人で立ち去っていく、そういう人たちが何人もくるのだそうだ。わたしはこのことはおもしろいと思った。

わたしはいまの心持と風体でうっかり外出すると、用事があって歩いている人たちのてきぱき感にアテられてああ隠れたいと思う。でも、このさい異物として路上にいるのもいいかなと思うと元気が出てきた。かえってハイになってしまった勢いで、ふつう着られないしまいこんだ衣装に身をつつんでみた。明治から昭和50年代まで生きた祖父の冬用の袴をほどいて伯母がミシンで縫いなおしたチャンチャンコ。アパートの一人暮らしでも手元におきたくてしまっていた。着る機会はないと思っていたが。

母の形見の長袖カットソーは、純黒の厚手の生地のうえにフェルト地の茶色の大柄水玉をワッペン状にぼこぼこ貼ったもの。母の友人のデザイナーの作品だったと思うが、水玉は中国南部や東南アジアの民間療法の、肌に真空ビンの跡がぼこぼこついている感じを思わせる。マフラーがわりにクルンのムアンさん手織りの布。派手な柄マスク。近所の良品買館に走ってスカートズボンとつば広の帽子とハンディ折り畳みイス購入。靴はいつものスニーカー。

C:\Users\InoueKo\Desktop\DSCF2319.JPG
あやしいかっこう

やってきたが

10月23日、金曜の朝9時、東京メトロの国会議事堂前駅に降り立つ。線路側の柱に “National Diet Bld.” という文字が貼ってある。ナショナルのダイエット? あ、国会議事堂ってことか。階段をあがって地上に出る。だだっぴろく、人影はすくない。一瞬ここどこだ?となるが、広場みたいに広いだけの無機質な交差点のむこうにテレビでみなれた首相官邸の建物がみえた。ヘーベルなんとかやなんとかハイムの親玉みたいだなというのがナマでみた第一印象。雨なのでビニール傘をさして、さてどのへんの場所に立とうかと視界を見回す。

官邸から太い道路をへだてた向かい側が国会記者会館で、そこの歩道に菅野さんの姿がちいさくみえた。イスとか簡素な「座り込みセット」的なものもみえる。ほかはだれもいない。通行人もけっこうすくない。交差点のわたしがいまいる真後ろが国会議事堂のようだ。横断歩道をわたって菅野さんのいる歩道にきた。あいさつも何もせず数メートル離れたところに立ちどまってみた。べつにどこでもいいのだ、ここでいい。

リュックから本を一冊だしてひらく。片手に傘だから読みにくい。二宮金次郎の像になった気分だ。本はジョン・デューイの “Art as experience”。書き途中の原稿のために読み始めたばかりのをもってきた(ちょっとかっこつける自己満足もあった)。菅野さんは視界のうしろでみえない。ただ立っている人が目の前にもう一人。長い棒をもった制服警官だ。傘をささずに直立不動、防水ジャケットだろうか。トランシーバーで同僚か上司に「いま学術会議の抗議の男性一名、立ちました」と連絡したもようだ。健康そうで人のよさそうなお兄さんで、あやうくにこっと(にやっと)ほほえみかけそうになった。

9時台は通行人がまたたく間にふえた。その警官のかれは、ここ(記者会館側)から官邸へとのびる横断歩道をわたるすべての通行人に「どちらに行かれますか?」と尋ねている。官邸に用がある人はIDカードか何かを示して二言と発さずパスする。斜め向かいの議員会館に行く人も口頭で短く答えたり指さしたりでパスする。トランシーバーで「男性二名、議員会館」とか向こう側に逐一報告している。家を出る前にみた動画を思い出す。抗議の人が帰るかなにかで渡るだけなのに阻止されているようだった。権力の不法だと思った。わたしがいま渡ろうとしたら、警官のかれは止めるだろうかと想像する。いま目の前は警官の「実直さ」、通行人の「善良さ」の図で、何もおこっていない風景にもみえる。でも、こういうのを何もおこっていないとみてよいわけではないだろう。この場所に立ってみると、じぶんも異物で異化されていると感じるが、平常の人たちもカッコつき「実直」「善良」ぐらいには異化されて見える。このうすぼんやりたなびくようなイヤな感じを見て、手元の活字を見て、心のありかがわからなくなってくる。

このかん一人、抗議の人がきていたが、いつのまにかどこかに行ったようだ。地蔵のような気分でわたしは立っている。当たり前だが、通行人はもう本当にわたしの姿が見えないという無視ぶりで歩き去っていく。ずいぶんむかしの何かの記事か本を思い出した。嵐山光三郎氏がホームレスの「見習い」になるというディープな取材をしていたあるとき、通行人のまったく無関係の笑い声がたまたま聞こえて、なぜかカッとなって通行人につかみかかりそうになった。そばにいたホームレスが気配を察しておしとどめ、「な。笑い声に敏感になるんだよ」とつぶやいた、という。

似たようなへんな現実感のなかにわたしもいたのだが、一つちがったのは、ぜんぜん笑い声なんか聞こえないことだ。人びとの歩きぶり、粛々としすぎていて、会話さえほとんどない。わたしもまあ着いてからずっと黙っている。こういうこともふだんまったく気にしないし気づかないことで、この界隈が特殊なのか、どこでもこんな感じなのか、路上に声がないことはありふれているのか、そうじゃないのか、にわかにはわからない。

しんしんと雪がふるように、人がゆきかい歩いていくという。うーん、なかなかへんな場所だ。

(つづく)

(文:井上航)

  1. 若干の手伝う人はいるがほぼ一人での実施だという。最低限の水分等をのぞいて食物を摂らない様子をおさめた映像や、呼びかけ抜きのフェイスブック日記など「地味」な活動記録がリアルタイムでネットに投げられてきた。菅野氏は10月26日(2020年)の国会召集をもってハンストにピリオドをうった。まとまった取材記事として次のもの。https://webronza.asahi.com/national/articles/2020102700008.html

コメントを残す