番外編(日本)

官邸前に行ってみた-その2-

へんな場所だぞ

その場で二宮金次郎像のように立っていると、官邸前ってなんかへんな界隈だ。だがそもそも、わたしが立っている理由の日本学術会議からして、その名をはじめて知ったのが中1のとき読んだ復刻版の水木しげる「鬼太郎夜話」で、それ以外のなじみはない。

わたしの血の50%は水木しげるでできている(本文には直接無関係)

死後の世界はあるか?というテレビ特番にねずみ男が地獄の砂をお目にかけるとのふれこみで出演。たいして、死後の世界などないと対決するのが日本学術会議のお歴々で、1960年代の科学万能的な権威としてカリカチュアされていた。80年代後半の中学生のわたしは、国会や総理大臣や裁判所が現実に存在するのは知っていたが、日本学術会議はとんときいたことがなく、「東都大学」とか「毎朝新聞」とかへたすれば「科学警備隊」みたいなフィクション世界のそれらしげな機構だと本気で思っていた。ところが最初に就職した会社のちかくを散歩していたとき、青山墓地の裏手のひっそりした一角に日本学術会議の建物がでーんと現れ、ほんとにあったんだとおどろいた。これも20年以上前のことで、その後いちども思い出さなかった。うん、いまの政権がねらいをつけるのにぴったりだ。確信犯。

それで、官邸前がどのようにへんなのかという話だった。「その1」では、通行人はだいたい無言で、雪がしんしんと降るように目の前をあゆみ去る、そんな違和感だとのべた。通行人なんてそんなもん、というだけでない気がする。はっきり言うと、街らしさがぜんぜんない。街のなさが人の気配を「しんしん」にしている。ふってわいてどこかに消える雪でもいいが、そんなきれいじゃなくて、ポンプであがった水が噴水になって落ちて地下にもどってポンプに汲まれてという人工ガーデンの循環水の感じにちかい。闊歩、闊歩、循環水しんしん。ハンストしていた菅野さんとだれかがしゃべっている動画でもこの場所の違和感が語られている(全編興味ぶかいが、11分ちょうどから2分ぐらい場所柄の話をしている。ちなみに話し相手は知らないかただ)。

いわく「都市計画も建造物も貧相のきわみ」「ぼくは飲食の街がすきで、祇園や仙台の国分町で立小便しようとは思わない。でもこのへんは立小便できる・したくなる雰囲気だ。上野の駅の裏とオーラがあまり変わらない。ごみごみしい感じ。清潔感ない」。同感である。わたしもつけくわえると、工場街や倉庫街の雰囲気だ。「官邸」「議事堂」などの建物名や黒塗りハイヤーのセレブ感にだまされるが、グーグルマップなどで区画のシルエットだけみれば、大型トラックしか出入りしないエリアと変わらないとだれしも思うだろう。実際、風景は大味で、植栽はただあるだけで、路肩にうすよごれた砂粒がつもっている。地図ではとなりの敷地ですぐ着くようにみえる場所が、実際は一区画がおおきすぎてえんえん景色が変わらないあの感じだ。そんな場所に、いかにもネオリベラルゥ~に行きとどいた身なりの歩行者男女がしんしんと、ただただわいて消えるという、わかるようなわからないようなプチ異世界なのだ。

中枢で場末

市や路上にもの思いをさそわれるわたしには、なぜ東京のどまんなかが倉庫街じみているのかふしぎだ。けっして一朝一夕にこんなふうにならない。むかしはどうだったのだろう。まったくくわしくない者なりにゆるく考えてみる。

鈴木理生氏によると 1、源頼朝挙兵のころから知られる江戸氏が流通の長者だったり、太田道灌が金にドライな傭兵隊長だったり、円覚寺など寺社の荘園が貿易拠点をもっていたりという江戸は、徳川以前にすでに数百年にわたり封建的性格の希薄な「いちば」(鈴木氏の用語:情報・人・物の交流の場)だった。現在の隅田川など利根川系の河川地帯は洪水がおおかったため中心とはならず、中小の川がそそぐ入江だった日比谷の周囲がさかえたらしく、いまの千代田区・中央区エリアには家康がくる前の時点ですでに65軒の寺があったという。首相官邸は日比谷からほんの目と鼻の先の内陸側で、官邸のすぐそばの日枝神社は太田道灌が川越からもってきて地主神にしたものだ。そのへんからかってに推測すると、いまの官邸のあたりもわりと自由な「いちば」の雰囲気があったのではないかと思う。

おもしろい鈴木理生氏の本

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感想(3件)

しかし1590年以降、鈴木氏の見積もりでは徳川の軍と軍属などおよそ20万人に商人などを加えた人々が江戸に入ってきた(その後もどんどん人口がふえた)。ちなみに、徳川が埋め立てるまで日比谷は海であり、いまの東京駅・有楽町・銀座あたりは東京湾と日比谷入江にはさまれた半島の「江戸前島」だった。そこはずっと鎌倉五山の円覚寺の荘園で小田原北条氏も手を出せないアジール的な「いちば」だったが、家康が不法に接収し、やましさから文書を残さない隠蔽工作も徹底したという。ほんらい「いちば」のような場所こそが公共なのだが、そこをお上がかってに接収しておいて「公共の場でかってな活動するな」と矛盾したことを言うようになるのだ。

さて、江戸城やら都市計画やらで、埋め立て、せき止め、居住地の移し替えなどでかなりようすが変わるなか、官邸や国会議事堂のエリアは大名などの屋敷地になり、町人の居住は禁止されたという。古地図をみると、右下(南東)の溜池がいまは地名だけになっている溜池あたりで、森のように描かれているのが日枝神社で、首相官邸はその右(東)のほう、だいたい京極や内藤の苗字があるあたりらしい。まわりも武家屋敷ばかりだ。町人が住めないとは、完膚なきまでに「いちば」でなくなってしまったということか。倉庫街っぽい区画のおおきさもすでにうかがわれる。

ウィキペディア「永田町」によると、明治時代には陸軍施設が多数おかれ、永田町といえば参謀本部の代名詞だった。いまの国会議事堂ができた昭和11年以降に一転、政治中枢が集中したとのこと。民家が数軒あったらしいが、オリンピックに向けての道路拡張で1964年につぶされたとある。ふーむ。町人しめ出して武家屋敷にして、その後は軍用地にしていた界隈だったか。接収ひとすじ400年。そりゃ、倉庫街っぽくもなるだろうし、サツバツとした場末感はぬぐえないだろう。

路上の異物、しばしの憩い

午前10時をすぎると、通行人はぐっとへった。わたしは折り畳みイスをリュックから出してすわって本を読みつづけた。雨はひどいが、背中のうしろが国会記者会館の塀で、そこに傘をひっかけると両手があくことを発見。これはらくちんだ。本に集中できてしまう。家でしていることをしながらでも路上に立てる。いま在宅ワークの人もやろうと思えば同じことができるかもしれない。

あっというまに昼になり、地下鉄におりて一駅先の赤坂見附で昼めしにする。国会や官邸は丘の上、溜池や赤坂見附あたりは谷で、すぐとなりでも天然のバリアがあるのだが、それにしてもうってかわって街らしい街だ。ほっとする。雨も小降り、ふるい、うろおぼえの歌がでてしまう。「♪傘もささずに赤坂~」(別れても好きな人)。地名が詠まれまくりの歌だが、永田町はもちろん登場しない。さすがチェーンでない店がおおいが、結局サイゼリヤ。入口で100円引きクーポン(Go Toがらみ?)をくれたので、500円でドリンクバーつきハンバーグセット。うまし。

地下鉄でなく徒歩で現場にもどる。日枝神社の大鳥居を横目に溜池方面に歩くと、こちら側は谷底なので、崖上の官邸の裏が見上げられる。そのわきにめだたない歩道があり、丘にのぼれるようになっている。背後から官邸の目の前にでるのだ。正面入口5,6人の制服警官がいる前を何事もなくスルーして横断歩道をわたり(何事もなく!)、もといた場所に帰還すると、「抗議の男性、もどってきました」と警官がすかさず伝達。

また本を読みだしてしばらくすると、横断歩道のななめ向こう、議員会館のあたりがざわついている。さけんでいる男性の大声が聞こえるが、警官が何人もとり囲んでいてよくみえない。また一人警官がかけよっていく。
(つづく)

(文:井上航)

  1. 鈴木理生著『江戸はこうして造られた』2000年、『江戸の町は骨だらけ』2004年、ともにちくま学芸文庫。

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