番外編(日本)

官邸前に行ってみた-その3(完)-

風景をかき乱す力

官邸前の路上にはじめて立って、4時間ぐらいだ。警官たちがいて、通行人たちがいて、ハンストをする菅野完さんがいて、本を読む人がいる。行動はばらばらだけれど、官邸の中に総理大臣がおり、これにどこか関係してみんなこのへんにいる。ぼんやり、あるいははげしく思うことがあるんだろうが、路上ではしかしみな黙々としている。ここは街らしくないと言ったが、いろんな人のごった煮の風景ができてしまえばみな風景の一部なのかな、と一瞬思う。いや、菅野さんはなにせハンストだし、わたしだって異物っぽいかっこうをして本を読んでいるだけだが、体を張っているつもりだ。でも、個の身体をさらすことの力とはどういうものだろう。

そんなことを思っていると、さけび声があがり警官たちがどよめいた。広い広い交差点の筋向かいの議員会館のほうから聞こえる。よくみえない。男性が一人、警官に動きを制止されているが、まけずに押し問答を返しているようだ。膠着して、しばらくして静かになったと思ったら、男性は議員会館のかどから横断歩道をわたって国会議事堂のかどのほうにまだいたようだ。そこでまたさけびがあがり、警官がまた集まる。膠着するのだが、男性がぬらりくらり、すこしずつ押している。かれはまったく暴力的でなく警官は「お願いベース」で守勢にしか立てないから当然だ。

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ぴりぴりする警官たち

最初にさけびが聞こえてからずいぶん時間がたっていたと思うが、とうとうわたしがいる記者会館のかどにやってきた。警官たちをぞろぞろ引き連れてだ。「……ODA予算の使いみち、ちゃんとしましょう。国際司法裁判所をしっかり機能させる。それと日本にいる朝鮮の人たちの人権。ちゃんと守りましょうよ。そしたらだれも日本に攻めていこうなんて考えませんよ。軍事費ばっかりおかしいじゃねえか」。警官たちに議論を吹っかけるかっこうだが、表情は柔和だ。こたつとミカンが似合いそうなウールのセーターにスラックスで手ぶら、70歳前後だろうか、すこしふっくらしたおじさんだ。官邸の建物にもさけぶ。「おーい!菅さんよーう!ちゃんとやってくれよう!」「税金、かーえせ!税金、かーえせ!」。また最初のODAの話にもどり、最後にはコールする。ふしが出来上がっていて、ずっと繰り返しているようだ。警官は、ここだと通行で危ないからね、こっちのほうきて、なんて言っている。

おじさんがいなくなったあと、裁断のおおきいデザインの、朱肉みたいな赤一色のワンピースの女性が現れた。いやワンピースとみえたが、ボトムスをまったくつけていないのだ。すぐに目を離したが、むきだしのふとももには、打撲(?)の赤ぐろいあざがいくつもみえ、下着もあらわになっているようだった。横断歩道の前に立つので警官が「どちらに行かれますか」と尋ねた。女性は手にもっていた平べったい金属の箱を指し示して官邸を指し示して何か告げている。よく聞こえないが、箱を官邸のだれかに届けたいと言っているようだ。箱は全体にピンク色で、銅かブリキのレリーフがいちめんにほどこされている化粧箱というか、宝石類か高級クッキーが入っていそうな感じだ。ふたは大仰な留め金つきでかたくとじられたまま。すぐ応援の警官が2,3人とんできて取り囲んだ(女性は無防備も無防備なのだが)。やはりしばらく押し問答になっていた。わたしが何か別のことを考えていたのだと思うが、いつのまにか女性はいなくなっていた。

路上でうけた印象はというと、二人は風景をかき乱し、生き生きしていた。風景のなかで「そういうもん」になってしまわない生彩を放っていた。個において立つということでいえば、これほど何物にもしばられない個のさまもないだろう。

そしてこれはすこし苦い話かもしれないが、二人のようなたたずまいこそ、この官邸前という場所にふさわしい。おおげさにいえば土地の精霊にみえた。柴又帝釈天に寅さんが似つかわしいのと同じということだ。しっくりきてしかも風景に埋もれず画竜点睛になっている。苦いというのは、ひとえに官邸界隈の場所の苦さ、官邸や国会の苦さだ。すでに書いたとおり、この半径何百メートルの範囲には、実生の草木が雑木林をつくるような「いちば」のようすがまったくない。街がない。ゆきかう人と風景のあいだにあるべきなじみの関係、文脈がもとからない。ふつうの場所だったら、人ごみやざわめきのあるなしにはちゃんと理由があり、そういう理由の文脈にてらしてだれかの言動が「おかしい」とされることがある。だが、そもそも何もないからっぽな場所であれば、抜き身の直截な言動がごくしぜんな表出として落ち着いてしまう(映画の活劇シーンに荒野や倉庫街がおおいのはそういう理由もあるだろう)。だから二人はここにとてもふさわしいと感じられるのだ。

官邸や国会の中だって文脈なし人間がのさばりすぎているからなおさらだ。「そのような批判はまったくあたらない」「法に従って適切に対処している」「個別の事案にはお答えを控える」「記憶にない」「文書はすべて廃棄した」「募っているが募集してない」「総合的・俯瞰的観点から」。壊れたレコード的リピート&文脈無視のこれらを聞かされているから、おじさんのODA話だって伏魔殿に絶妙なカウンターをひびかせるには筋道がもっともすぎるしリピートもたりないぐらいだ。

二人は、個では絶対に立とうとしない人々にたいし、敢然と個をさらしていた。400年かけて「いちば」を取り去った空間は、人をやすやすと抜き身にさせないクッション機能も失っている。だから皮肉なことに、抜き身の個をぽんとひきつけてしまう。この空間は、身をさらす個の直接行動を、むしろ場に似つかわしいふるまいとして迎え入れているのだ。

身をさらすという抵抗

菅野さんのハンガーストライキという行動も、運動論のことはわたしはわからないが、個を直接さらすという観点で意味を探ることができるはずだ(ご自身の言葉でも語られている)。ハンストは「抗議や要求貫徹のための闘争手段として断食する示威行為」(デジタル大辞泉)と説明されるが、目的と手段の合理性の観点につきるものでないことだけはつよく思う。このやり方でこれだけの犠牲をはらえばこれだけの成果が妥当だなんて発想をはねつける、身を挺してやる行為だから人は動かされる。

うん、身を「挺する」のほうが身を「さらす」よりもびしっとキマッた表現に聞こえるかもしれない。でもわたしは「さらす」という言葉のほうにやはり思いをさそわれる。ハンストには「挺する」という輝かしい言葉もふさわしいが、いくぶん死を連想させるような肉体を「さらす」ことに訴求力があるとも言える。「さらす」には、かっこわるさも露呈する正直さというかほんとうらしさがある。実際に路上に立ってみて、わたしのやったことは、生きていることのたよりなさの一部を、ぼやぼやしていると終わってしまう人生の一部を、他人の視線にたださらすことだった。本を読む姿を「見せ」て知性はだいじだ、不法はゆるさないとアピールしたわけだが、それは路上の異物として「見られる」経験でもあった。

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なるほどペンで発信するほうが情報の質・量にすぐれるし、それなりのメディアにのせれば長期間おおぜいの眼にふれることにもなる。だがこのままの情勢では今回の介入は、政権が不法を押し切るのではないか。批判の論説でも抗議の声明文でも、学問の自由の危機だとみな口をそろえて言っている。ほんとうに危機感があるなら、ペンで発信し共同の声明などを発した先に直接行動がなされるものではないか。言うもおろかだが、今回わたしがそれに足る何かをしたとはまったく思わない。しかし、菅野さんも嘆いているが(本記事「その1」に貼付の動画参照)、当事者である学者たちの直接行動がほとんど出てこないのはいったいどういうことなのか。

神戸大学大学院の木村幹教授が毎日新聞のインタビューに答えていた。今回の件で、木村教授が所属する学会からは「会長名」で声明が出されたが、その学会の理事には学術会議の連携会員が複数いるのに「だんまり」なのだと言う。

私は本来、学術会議の問題は学術会議の構成員がまず何らかの意思を発信してしかるべきだと思います。それが、いきなり会長名や学会名で声明を出すというのは、どうなのか。

デジタル版毎日新聞2020年10月26日「『だんまり決め込むなら、学術会議はなくなったらいい』木村幹教授の痛烈投稿 その真意は」より

たしかに、あまたある「〇〇学会」の名での声明文はたくさんみかけるが、肝心の学術会議の会員や連携会員からは、直接行動はおろか、自らの名での発言も聞こえてこない。梶田隆章会長一人に「弱腰」批判を浴びせるのでなく、そこを注視すべきだろう。

一部の研究者を除き、なぜ意思表示しないのでしょうか。

何となく政府に対して萎縮しているのが半分くらい。残り半分は、社会運動をしたり政治について発言したりするのは格好悪い、言葉を変えれば『学問的ではない』と思っている。 

同上

先日10月18日には東京・渋谷で学者・作家らによるデモがあったと報じられている。参加した学者有志の直接行動と発言はとても貴重だと思う。もっとも、そのデモも主催はアーティストらでつくるグループとのことで、研究者自らが街頭での直接行動を組織するのはやはりハードルが高いのだろうか。

しかしだ。官邸前はいつでも抜き身で行動する個を迎え入れてくれる。一般市民が本を読む姿を見せるという個の抗議をしている。研究者だってぱっと一人で行けばいい。グループで行くならなおよし。どんな身のさらし方をする?パソコン広げて論文書いたり、それこそ自宅や研究室でやっていることをしてみればいいかも。学術会議の先生方にまずはがんばってもらいたいのと同時に、ノラもふくめた研究者一般も「さらす」直接行動、どうだろう。そんなにむずかしいことではない。官邸前はむしろ「無主荒野」だ。市を立てよう。空いているスペースを使うときだけじぶんたちのものにしてしまうのは、楽しくもある。

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夕方ちかくに雨あがる

(文:井上 航)

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