蛇除けの刺青
ミャンマーで長期調査をしていたころのことである。私が刺青、刺青と騒いでいると、仲の良いビルマ人のお姉さんが、「私も入っているわよ」と言い出したことがある。彼女はメイクにはとてもこだわりをもっていてオシャレな人だったが、タトゥーを入れるようなギャルではなく、ミャンマーの伝統衣装を好む典型的なミャンマー美人だ。1970年代生まれで、年代的にもギャルよりは少し上の世代である。
彼女はそう言うと、前髪を上げておでこを見せてきた。よく見ると、おでこと髪の毛の生え際のところに、紫色で小さな点が1センチ間隔ぐらいに三つ入っていた。あきらかに何らかの色素を皮膚下に注入してある。しかも相当時間が経っているようで、薄くにじんでいた。彼女はこの刺青を子供のころに入れたという。この刺青を入れていると、蛇に噛まれなくなるとのことで、当時の子供はほとんどみな同じ刺青を入れてもらったらしい。点々で彫ってあるのは、蛇に噛まれたときの歯形を表しているとのことだった。さらに、単に見かけ状の類似だけでなく、入れている染料も、蛇の毒だったか、蛇の毒に効くとされているものを混ぜ込んだ液体ということだった。
ミャンマーの若い男女が入れているのはいわゆる欧米風のtattooでガイコツやらバラやら、意味ありげな英文だったりするのだが、この蛇除け刺青はそういったtattooとはわけが違う。人に見せるとか自己満足のためのものではなく、「蛇に噛まれないため」というもっと実用的な意味を持っている。刺青によって世界に働きかける(蛇の動きをコントロールする)という意味では呪術的と言ってもよいだろう。呼び方も英語のtattooではなくて、ビルマ語で「トーグイン」とか「(トーグイン)ミンヂャン」などと呼ばれる。「トー」が突く、「グイン(クイン)」は環状(これはどういうことがよくわからない)、「ミン」は墨、「ヂャン(チャン)」は色がぼけるという意味である。
呪術的刺青
蛇除け以外にも、虎とか猫の刺青を太ももに入れると、虎並みのジャンプ力を獲得できるという話も聞いた。実際にとあるおっちゃんの太ももに虎の刺青が入っているのを見せてもらったことがある。これも人に見せるためというより、刺青を入れることで自分の身体能力を高めるという目的がある。ミャンマーではお坊さんも呪文のような刺青をよく入れているが、これも何らかの実際的な効能をねらったものであり、蛇除けのためやジャンプ力獲得のための刺青と同類だろう。
お坊さんが体に刻む刺青と言えば、タイの伝統的な刺青サクヤンが有名だ。サクヤンはハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーが入れていることでも知られている。サクヤンは呪術的な刺青の代表で、仏教と深い関係にある。特別な力を持つ僧侶によってのみ施術が許されており、サクヤンを身にまとった者は、いろいろな危険から身を守ることができると言われる。つまり護身的な意味を持っていて、さっきの蛇除けの刺青と同じ原理である。また、動物のサクヤンを入れるとその動物のようになれる(動物に憑依される?)という考え方もあるらしい。これも虎のタトゥーを入れるとジャンプ力が獲得できるという話とほぼ同じだ。サクヤンの祭典を取材した動画を見たことがあるが、会場は動物に憑依されて雄叫びを上げる男性たちで溢れており、阿鼻叫喚というか、すごいことになっていた。
タイやミャンマーにおけるこうした刺青の習慣は仏教と土着の信仰が融合したものと思われる。このようにタイやミャンマーには、西洋のtattooが流入する以前から、呪術的な刺青文化が根付いていたことはたしかである。西洋のタトゥーがなんの抵抗もなく受け入れられたのは、元来の刺青文化が関係しているのだろう。
オシャレタトゥーと呪術的刺青
最近思うのは、オシャレタトゥーと呪術的な刺青は、はっきり区別できるものなのか、ということだ。たとえば若者のタトゥーにも呪術的な意味があるんじゃないかという気がしている。本当に大した意味もなく、なんとなく柄が気に入ったから彫る場合もあるだろうが、何か心機一転したいとか、弱気な自分に喝を入れたい、というような意味でタトゥーを入れたという話は珍しくないと思し、おそろいのタトゥーを彫ることで、人との絆の証しにすることもある。このときタトゥーはやはりなんらかの呪術的なパワーを持っているような気がする。
反対に、どんな呪術的なタトゥーであっても、タトゥーである以上は体の表面に彫るものであり、たいていは人目につくものである(全然人目につかない場所に入れてあることもあるが)。そうすると、ファッション性やデザイン性から完全に切り離されたところで成立する、ということは難しいような気がする。つまり、何が言いたいかと言うと、美と呪術は表裏一体というか、切り離せないのではないか、ということである(調べると『古代日本の美と呪術』という本があるらしい。読んでみたい)。
やはり刺青は入れたいというより見て愛でたい
自分ではタトゥーを入れてないくせに、痛さを知らないくせに何を言っているんだという感じだが、人のタトゥーを見ることが好きということと自分がタトゥーを入れるということは、また違うのである。
刺青文化研究者の山本芳美氏もたしか『イレズミの世界』(河出書房新社、2005年)で、周囲(全員ゴリゴリに刺青が入っている)にあんたも入れたらどうだ?と勧められても、任せられる彫り師さんにまだ出会っていないと言って断っていると述べていた。刺青に対して並々ならぬ愛情を持ち、あれだけの刺青研究書を著しておきながら、である。山本さんは、刺青を研究するなら刺青を入れるべきだという考え方がそもそもおかしい、という。幼児虐待の心理を研究するなら、幼児を虐待しなければならないのかと。それは研究対象と研究者の関係の問題であり、研究者たるもの、研究対象に飲み込まれてしまっては、客観的な分析ができなくなるのではないか、ということである(『イレズミの世界』)。
たしかに山本氏の意見はよくわかる。どこかで距離を保っておきたい、という気持ちと言ってもよいだろう。自分がプレイヤーになってしまったらいけないのだ。たとえば賭場の胴元は自分では賭けないと言うし、麻薬の売人が麻薬に手を出さないというのと似ているような気がしないでもない。自分がハマってしまったら、見えなくなってしまうものがたくさんあるし、一度手を出せば抜け出せなくなるという中毒性への恐れもある。あくまでも距離を保ちつつという、この距離感がちょうどよい。そして私も、あくまでも他人に彫られたタトゥーを拝めるだけで十分だと思えてしまうのだ。
(文:山本文子)
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