番外編(日本)

着物ができるまで(前編)

京都で過ごしていると、玄人や一般人を含めて着物をお召しになった方々をよく見かける。外国から来た人が冬にも着せられていた気の毒なほどペラペラな着物もどきはともかくとして、本物の着物はいったいどのように作られているのだろうか。徘徊アカデミアのロゴをデザインしてくれたアヤコさんは、実は着物の企画・デザインをしている人だ。せっかく身近にプロがいるのに、聞いてみない訳にはいかない。何一つ知らない私に、辛抱強く解説をしてくれたアヤコさんにまずここで感謝の意を表する。もちろん何か頓珍漢なことを書いていたとすれば、すべて私が至らぬせいである。

着物のデザイン

着物は和という固定観念にとらわれていた私は、デザインをする人たちは松竹梅、亀甲模様など「いかにも和柄」というものを描いているのだろうと思っていた。和柄と一口にいっても様々で、古典柄という場合には、万葉集などが出典となっている歴史と由緒ある柄と、デフォルメされ簡略化された柄があるそうだ1。古典的な柄の組み合わせ方は無限にあるのだが、着物として美しく見える組み合わせは限られている。今の時代、古典柄だけではとてもやっていけないので、現代の着物デザイナーたちは、古典柄に囚われることなく、絵画から波打つ水面に至るまで、あらゆるものを参考にしてデザインを生み出している。

ザ・古典柄のイメージ(画像はアヤコさん提供)。古典柄には万葉集などで好んで詠まれていた花であるとか、源氏物語の物語を暗示するような柄であるとか、教養が無いとわからないものが多数。

着物デザインに特化した専門学校のようなものはない。着物のデザインをする仕事につくにあたっては、図案家(古くからの徒弟制度がしかれていた)に弟子入りするか、デザイナーを雇用している着物関連の会社に就職するということになる。後者の場合、デザイナーとして雇ってもらうためには、Photoshopやillustratorを使って「デザイン」ができるということが欠かせないスキルにはなるだろう。

図案家は師匠から弟子へと脈々と作風を受け継ぐというだけではなく、時流に合わせた新たな図案を創作することで生き残ってきた。現在、図案家と呼ぶことができる人は減少の一途で、若い人で60代になるという。着物業界もご多分に漏れず、技術変化の影響を受けており、振袖に使われるような古典柄はデザインの型の多くが既に電子化されている。図案家という職人がいなかったとしても、着物のデザインができる時代になったということもあるかもしれない。

大正から昭和初期の作と思われる柄(アヤコさん提供)。図案家が時代に合わせてデザインを生み出してきた。

京の分業体制

着物ができるためには、まず生地が必要である。白生地(しろきじ)と呼ばれる、染色が行われる前の生地を作る業者がいる。白生地そのものには、地紋(じもん)と呼ばれる織り方の違いによって出された模様がある2。アヤコさんの言葉を借りると、白生地は画用紙で、画用紙に絵を描いていく作業が染めの行程だ。絵の具の乗せ方だけでなく、画用紙がツルツルか凸凹があるかという点によっても作品の雰囲気は変わってくる。白生地を選ぶという作業もデザインの重要な一部になるのだ。

白生地と調べたら色々とイメージを検索することができると思うが、左は「紋綸子(もんりんず)」右は「縮緬(ちりめん)」である(写真はアヤコさん提供)。ここに色が乗せられていくわけである。

業界では織という場合には、反物を織りながらその織り糸で柄を出すものを指すそうだ。たとえば、反物を織る時点で柄を織り込むのが大島紬(左)で、反物を織った後で柄を染めるものは染め大島(右)と分けて呼ばれる。この場合、大島紬が織ということになる(写真はアヤコさん提供)。

着物業界は、基本的に分業体制である。とくに京都の場合は分業の細かさが違っており、染め潰し屋(通称潰し屋:つぶしや)、その下に悉皆屋(しっかいや)、染屋、型屋、蒸し屋などと分かれている。この変則バージョンもあるから、とてもややこしい。自分が理解したところによると、潰し屋というのが白生地を手に入れて反物を作る問屋さん的な存在で、悉皆屋というのがデザインのプロデュースをする集団だ。

潰し屋がこういうデザインでという指示を悉皆屋に出すこともあれば、悉皆屋がこういうのもできますよと売り込みに行くこともあるそうだ。潰し屋は、例えば、抽象的な幾何学模様などを扱うブランド、古典柄を扱うブランドといった具合にいくつかのハウスブランドを持っている。悉皆屋はこうしたブランドに沿った形で、製造の現場をまとめ上げて、反物という形に仕上げていく仕事をする集団のことだ。

デザインされたものが、職人たちの技を通して反物という形になるまでは、次の記事で書いていきたい。

  1. アヤコさんの見立てによると、着物の柄を出すときに刺繍の技法が用いられていた時代(戦国時代以前)は、緻密な表現が難しいために文様化されたモチーフが多く用いられていた。時代が下ると、染色技術が向上する過程で着物の柄のデザインも多様化されていったのではないかということだ。デフォルメされた柄については以下のサイトの16世紀の小袖が参考になる。https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101136&content_part_id=0&content_pict_id=0
  2. 着物の布はすべて織物というのだという認識をしていたところ、縦と横の糸で構成されているという意味では織であり、一本の糸で構成される編み物や、織られていない不織布とは異なる。しかし、業界で織という場合には、反物を織る時点で柄が織り込まれたものを指していて、反物を染めて作るものは染というそうだ。本文中にも書いたが、反物を織る時点で柄を入れるものは単に大島紬、反物を織り上げた後柄を染めて作られるものは染め大島といわれる。

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