カンボジア, フィールドワーク四方山話

月食に叩く

まだ雨季はおわらないが、地面が乾いているのを少しずつ見るようになったころだった。調査地の村にいると、カレンダーを見ないしテレビもネットも見ないから日付の感覚がにぶくなる。おまけに村というのは人工的な色彩がないから、緑と茶色ばっかりで、なんだかぼんやりしてくる。

いや、村は意外に樹木がすくないからか、うなだれて下を向いていることがおおいからか、わたしの感覚だと、茶色9割という感じでいちめん土の色なのだ。そういうところで地面が乾いてくるというのは、雨季と乾季しかない土地ではれっきとした季節感なのかもしれない。でも、村の人たちとちがってわたしは畑仕事もしないからピンとこない。「晩雨」とか「初乾」みたいな言葉でもあればちょっとは季節感らしいけれど、そんな言葉もないし、ただ土が乾いてきたというぐらいで、にぶい頭で毎日すごしていた。

実はその日は2014年10月8日だった。日付がはっきりしているのはあとで調べたからだ。あれは「月食」だったはず――。閉ざされた(!?)村での一体験だったものを、グローバルな視野で(!?)再認識してみたく、町に出た日にネットをひらいてみたところ、天文現象のことだから日付がちゃんと出ていたのだ。

奇妙な月

その日わたしはケウさんの畑にいた。その日は稲が無事に生長しているのを祝う儀式でみんなで酒をのんだのだ。真っ暗になると心ぼそいから、暮れかかる前に腰を上げて帰路についた。でもやっぱりすぐ暗くなってきたと思いながらとぼとぼ一本道を村に向かって歩いていると、月が出ていた。目の前に、でかい。

まわりの景色は暮れなずんでいて、月ひとつ、わたしひとりの静かな対面なのだが、どうも色がへんだ。妙に赤っぽい。暮れきらない空の色とか湿度とか、そんなものが影響しているんだろうか。わたしはもくもくと、目だけは月に吸い寄せられるように歩いた。

当時やっかいになっていた家にたどりついて、夕飯をいただいた。ごはんを食べながら、さっきの帰り道のことを忘れかけていると、家の入口にイェヘの顔がのぞいた。
「コウ(航)! ンコ・カップ・カイだ。ゴングを叩くよ。」

イェヘはその家の高いフロアのほうへスタスタあがっていって、さっそく直径70センチぐらいのおおきなゴングをこぶしでぶんぶん打ち鳴らし始めた。夜空のほうを見ている。いや、月を見ている。
「ンコ・カップ・カイだ――」

 

みんながひとしきり騒いでいた後ようやく撮った写真。
こういうものの撮り方も知らないし、終わりかけだったからか、
ぼうっと赤っぽい不気味さは全く写し出せなかった。

聞きなれない言葉だけど、「カイ」は月の意味だ。月の色がへんな、あれのことかと思った。外に出てみると、にわかにさわがしい。村じゅう、ほうぼうで何かしら物を叩いているのだ。目の前では子どもたちがブタのえさ箱を焚き木でガンガン叩いている。やっぱり月をじっと見つめ続けている。まわりからも、暗かったのでよく見えなかったが、ナベとかヤカンとか、金物類のキンキンした音がよく響いてくる。

ブタのえさ箱はどこの家でも屋外に出されているものなので、叩くときに目につきやすいのだろう、おおくの人たちはブタのえさ箱を叩いているようだ。さっきの子どもたちが叩いているえさ箱は、もとはナベだったのだろうか、へこみまくって原型をとどめていないが金属製だ。でも、ブタのえさ箱には木製のものもおおい。ほうぼうで叩いていて、金属の音と木の音が入りまじっておもしろい。

月を見上げてブタのえさ箱(金属)を叩く子どもたち
ブタのえさ箱、木でできたのはこんなの

空の魚が月をかじる

せっかくだから村を歩いてみた。じぶんが歩いて移動するにつれ、ほうぼうからの叩く音もどんどん聴こえてくる。ナベやブタのえさ箱ばかりでなしに、何やら手当たり次第に叩いている。目立つ音があるとその音を中心に一つのリズムがあるように聴こえてくるのだが、耳の錯覚というやつで、実際にはめいめいが好きなように叩いている音が重なっているだけだ。

ようすを見物しに表に出てきた人をつかまえて話を聞いた。いわくンコ・カップ・カイは、毎年あることじゃない、だいたい5,6年に一回とかだ。空に住むンコという魚が月をかじって食べてしまうことだ、云々。この時点でわたしはこれは月食だという確信をもった。それで、ンコに食べられると月は病気になってしまい、地上では稲やカシューナッツの実りが悪くなる。だからンコには嫌がる音を聴かせて退散してもらおうということらしい。

稲とカシューナッツの実りというのは村全体の生死にかかわる重大事だ。総出でがんがん叩きまくるのもおおいにわかる。ただ、この神秘的な語りをみんながかたく信じているわけでもなさそうだった。節分の豆まきで、豆のまきかたに気合が入っている人ほど鬼をすっかりおそれているかというと、そうでもないだろうという、そういう感じだ。クルンの人たちにも、これはこういう行事だから!というあっけらかんとした雰囲気があった。

というのも、本当だったらたいへんなのに、なんだかみんなはしゃいで楽しそうなのだ。ま、何だって物をボカスカたたくのは楽しいよね、そういうもんじゃないか。叩く音でごった返す村だったが、しばらくすると月はいつもの何の変哲もない月にもどっていた。

いまでもネットを検索すると2014年10月8日の「皆既月食」の記事がある。地球の影が月に映って、赤っぽく見えるとちゃんと書いてある。
http://www.astroarts.co.jp/special/20141008lunar_eclipse/eclipse-j.shtml
わたしが村で月を見ていたとき、世界中でおおくの人が同じ月を見ていたんだなあ。つくづくいい経験をした、おもしろかった。

叩くのはわれらの言葉

月食のときに物を叩いて音を出す行動は、正面きって音楽とは言わないが、どこか音楽的だ。そう思って、担当する単発講座で取り上げることにした。「東南アジアの音楽と芸能」にかんするリレー講座の一回で、別の回を担当する講師の人たちにアイデアを伝えたら、「物を叩いて悪いやつ退散!っていうの、けっこうあるよね」という話でもりあがり、みなさんがいろんなユーチューブの動画をおしえてくれた。みなさんに感謝して、ここでも紹介させていただこう。

まず、わたしもこれは当時ニュースで知って興味深かった。ミャンマーの2月(2021年)の国軍によるクーデターの勃発直後、ヤンゴンなど都市の街角で、抗議の意思表明で市民がいっせいに物を叩いた。くりかえすが、勃発直後だ。どんどん状況が悪化して、元気にケツをけりあげるような抗議のようすが遠い過去に思えるのはつらいことだ。「国軍退散!でていけ!」

次にカンボジア、今年(2021年)の3月下旬だ。これは「コロナ退散!でていけ!」。クメールの人たちのどこかの田舎町というか村なのだが、夜ののどかな感じが、わたしが月食の夜に見た村の様子とどことなく似ている。ナベのふたをシンバルがわりに……やるなあ。

おしまいにこれも3月下旬のインド。これもコロナなんだが、医療従事者たちの奮闘に感謝するということらしい。拍手もしているし、叩くことのポジティブエネルギーが素直に出ているようだ。それにしてもどでかいマンション!窓から窓から叩く叩く、壮観だ。

悪いものを追い出すのにみんなでいっせいに物を叩くのは、どうもアジア共通の文化らしい。日本でも、あれやらこれやらとにかく問題だらけでウンザリなんだから、こういうのをやらないかなあ。

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