タイ南部国境県

音楽で思い出すことなど

最近、Spotifyをダウンロードしてみたのだが、選曲をAIに任せてみるのがなかなか面白くてはまっている。大学時代から好きなのは、インディーズ系のバンドばかりだ。試しに、究極のインディー(ultimate indie)というラジオを選んでみたら、たまに好みでない曲が混ざるとはいえ、間違いない。検索すると「イスラームの祈り」までしっかり入っていて、世界中の人がスマホやパソコンを持っている時代に生きていることに、しみじみと感動する。ある日、紅茶に浸したマドレーヌならぬ、聞こえてきた音で記憶が蘇ってきた。ウィズ・カリファのシーユーアゲインという曲で、その後の選曲はすべて、2015年にヒットした曲だった。

Photo by Mohammad Metri on Unsplash

2015年、田舎での下宿探し

2015年5月、私はバンコクから南部の国境地域にあるパッターニーに移動した。パッターニーには知り合いがおらず、バンコクの先生を探したときのように、細いつてさえもなかった。バンコクの大学で受け入れてくれた先生からは、深南部は治安が良くないので行かなくてよいと言われていた。先生に助けを求めるわけにもいかず、私はチュラロンコン大学内に事務所があったムスリム系国際NGOを訪ねてみた。ありがたいことに、現地の大学でアラビア語を教えているパレスチナ人の先生を紹介してもらうことができた。この先生は大学で教えるかたわら、市内でビジネスを経営していて、私は従業員の女の子の家にとりあえず居候させてもらえることになった。

先生のパートナーの力を借りつつ、学生が暮らす下宿をいくつか紹介してもらった。雑貨店を営む家族の所有する下宿に住むことを決めたのは、パッターニーに移動して3日目のことだ。駐在員や外国人が多いバンコクだと、日本語で対応してくれる専門の不動産業者がいるし、インターネット上にも英語やタイ語の情報がたくさんある。日本で家探しするのと変わらないけれど、地方だとそうもいかない。まずはホテルに投宿して現地の人に貸し部屋を探してもらうという方法か、貸し出されている部屋がない地域であれば、人の家に居候させてもらうしかない。

下宿の部屋は8畳ほどで広く、二段ベッドが置かれ、バスルームも清潔だった。私は、淡い水色とエメラルドグリーン中間のような色の壁がとくに気に入った。ソンクラーナカリン大学付属学校のすぐ近くだったので、暮らしていたのは女子高生だった。私にとって死活問題となったのは、エアコンがなかったことだ。5月は1年のうちでも暑い時期で、日中の部屋の温度はおそらく40度に近くなっていたのではないだろうか。夜は扇風機をかけていたら肌寒く感じることもあるくらいだが、予定が無い時にどこで日中をやり過ごすのが課題となった。そこで私が市内にいるときに作業していたのが、下宿の近くにあったWi-Fiが使えるカフェである。

ブラザーフッド

私が音楽を聴いてまず思い出していたのは、このカフェだった。ハラール対応で、ご飯ものだけではなく、バーガーやポテト、果物のスムージーなど飲み物も充実したカフェだった。カウンターに置かれたパソコンは、店のスピーカーにつながれていた。午後2時過ぎ、大学生風のムスリムの男の子たちがやってきて、何をするでもなく、かけ始めたのが、ウィズ・カリファの曲だった(同じ綴りで読み方はハリーファとなると、アラビア語で継承者などを意味する言葉だけれど、このアーティストはムスリムなのだろうか)。シーユーアゲインは、映画ワイルドスピードの撮影中に事故で亡くなったポール・ウォーカーを追悼する歌でもある。男同士の友情を称える歌詞で、チャーリー・プースのピアノと甘い歌声が多少和らげているとはいえ、非常にマッチョな感じである。

小麦色をした男の子たちは、細身ではあるが、顔立ちもはっきりしていた。ワイルドスピードの登場人物のようにはいかないけれど、シーユーアゲインがBGMでも、何となく様になっている。ブラザーフッドを称える曲を大音量で聞き入る男子学生たち。曲が終わるとまたパソコンの前に向かい、再生ボタンを押しに行く。3回目のリピートに入った時にはちょっと勘弁してくれよと思ってしまったが、互いの友情を確かめあっているようでとても微笑ましかった。

ブラザーフッドを歌った曲の浸透力は、すさまじかった。パッターニー市街地よりもっと田舎の、農村地帯に移動した時のことだ。私は、ラマダン明けの一週間後を祝うラヨネーという祭りに参加していた。このお祭りが、イスラーム的に物議をかもしていることは、以前別の記事で書いた。花火が打ち上げられ、爆音でナシード(神やムハンマドを称える宗教音楽)がかけられる会場は、熱気と高揚感に包まれていた。一通りイベントが終わった頃、小径からちょっと外れた暗闇にブラザーたちの小さな集まりが見えた。タララン、とピアノの音とともに、イッツ・ビーン・ア・ローング・デイと聞こえてくる。ハリウッド映画とポップミュージック、アメリカのソフトパワーのすごさを思い知らされる気持ちがした。

ヒット曲たる所以

新居での生活に慣れてきた頃、パレスチナ人の先生の所をたずねたあと、カフェに自転車で向かっていた。すると、軽自動車が自転車の横すれすれにつけてきた。誘拐されるのかと恐怖におちいり、ペダルを漕ぐ足に力を入れると、助手席の窓がおもむろに開いた。あなたがナオミね。会ったことがあれば、記憶に残っていそうな美人だ。汗だくで逃げようとしていた私は、見ず知らずの美女に声をかけられてキツネにつままれた気持ちになった。しばらく話していると、深南部では有名なあご髭のジョル先生(ニュージーランド人)がメールで言っていた、ケンブリッジ大学に通う大学院生だった。頭の良い人の考えることはよくわからないが、自転車で走る外国人は、日本人に違いないと思ったそうだ。

彼女は恋多き人で、出会った当時はイギリスにいた頃に付き合っていたフランス人をフッたばかりだった。その後、深南部でも浮名を流し続けてきたが、車内でも下宿でもかかっているのは、アデル、エド・シーラン、リアーナ、パッセンジャーなど2010年代にヒットした恋愛ソングばかりだった。彼女は、下宿のバルコニーでビールやラム酒を飲みまくって前後不覚になると、必ずスピーカーの音量を最大に上げて、ロングヘアをふりみだして熱唱する。もちろん、どろよい状態なので上手な訳がなく、深夜に迷惑極まりない。私はご近所のことが気になって、ストレスでしかなかった。それまでビルボードにのるようなヒット曲と無縁な暮らしをしてきたが、2015年前後のヒット曲に少し詳しいのは彼女のおかげである。

私はとてもひねくれた人間なので、ハリウッド映画やヒット曲、それを好む人たちに対して、長いこと非常につまらぬと斜に構えてきた。2015年、私はヒットするものには、ヒットするそれなりの理由があるのだと素直に思えるようになった。PVなど見ても普通にカッコいいし、歌詞もよく聞けば良いのが多いし、メロディーも耳に残る。映画や音楽産業の罠にハマっているだけだ、ということも大いにあるかもしれない。ただ、イデオロギーを超えて、メジャーかインディーズかも超えて、良いものは良いと言えるようになれたらいいなと思うようになった年であった。

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