トルコ, フィールドワーク四方山話

夜のイスティクラル通り(前編)

イスタンブールでぼったくりバーに行ってしまった話を書こうと思う。

この類のトラブルは、イスタンブールでは定番のもののひとつのようで、外務省のホームページでも紹介されている。ここでは、そんなベタなトラブルに実際に巻き込まれる旅行者もいるということを、お知らせしたい。思い返すだけで赤面してしまうような恥ずかしいエピソードも、読む人の他山の石になれることができれば、きっと成仏してくれると思う。

フランスのエクサンプロヴァンスに留学中の2008年6月、私は、同じ寮の日本人留学生と一緒に、イスタンブールへ4泊5日の旅行に出かけた。憧れの都、夢のイスタンブールだ。旅の本拠地は、スルタンアフメト地区の小さな宿のドミトリー。エクスで知り合ったトルコ人留学生たちと旅行2日目の夜に飲んだ他は、観光に徹した5日間だった。スルタンアフメト・モスク、アヤソフィア、地下宮殿のメデューサ、カパルチャルシュ(グランドバザール)、トプカプ宮殿、フェリー、鯖サンド、トルコアイス、などなど。なんという界隈か知らないが、狭い路地にひしめいている商店に鞄やらヒジャブやら服やらが大量に吊られている様子に感動したり、おじさん同士が腕を組んで歩いている光景に驚いたりしながら、とにかく楽しく過ごした。

そして、4日目、イスタンブール最後の夜。とにかく飲む心算でいた私は、同行者がまだ夕食もとらないうちに床についてしまったのに少し困惑していた。声をかけてもウンともスンとも言わない。きっと、連日無理をして私のペースに合わせてくれていたのだろう。でも、せっかくだから飲みたい。仕方がないので、近所の商店で500mlのビールを1缶買って、日暮れ前のスルタンアフメト・モスクの方へ歩いて行った。

商店街(2008年6月。撮影は同行者)

アンカラから来た学生

モスクの近くの公園でぐびぐび飲んでいると、若いトルコ人男性二人が親しげに話しかけてきた。なんでも、アンカラからイスタンブール観光に来た学生らしい。二人は私の飲みかけの缶ビールを指差して、一口くれと言ってきた。しかたなく缶を手渡すと、彼らはまわし飲みをしながらあっという間に空けてしまった。私のビール…。すると二人は、君のビールをご馳走になったからバーで一杯奢りたい、と提案してきた。飲み足りない私は、少し考えてから、その提案に乗ることにした。同行者は多分まだ寝ているし、近くのバーで一、二杯くらいなら大丈夫だろう。

ところが彼らは、こちらのOKの一言を聞くなりすぐに広場の外に出て、タクシーを呼び止めた。乗れ、乗れ、とせっつくので、私はついつい乗り込んでしまった。あっ、と思ったときにはもう遅い。タクシーは走り出している。近所の飲み屋ではなかったのか。自称学生の一人がおもむろに名刺ファイルを取り出し、日本の有名企業の社員の名刺を一枚ずつ見せてくる。なんだこれは。めちゃくちゃ怪しい。タクシーは夜の旧市街を通り抜け、橋を渡りはじめた。いったいどこに連れて行かれるのだろう。

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スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)前の公園(2008年6月撮影)。二日後の夕方、このあたりで学生を名乗る二人に声をかけられた。

地下のバーへ

辺鄙なところに連れて行かれたら一巻の終わりだな、と考えていたら、着いたのは意外にもタクシム広場だった。つい数日前、この広場から伸びるイスティクラル通り(東京出身の同行者いわく「イスタンブールの銀座みたいなとこ」)の飲み屋でトルコ人の友達と飲んだばかりだったし、その前には時間をつぶすために界隈をひたすら歩いたから、少しだけ道がわかる。本当なら、このときに適当な理由をつけて逃げるべきだった。ところが私は、見覚えのある場所に着いて、かえって気が緩んでしまった。二人の自称学生に案内されるがままイスティクラル通りを下って脇道に逸れ、大通りの裏手の建物の地下へ入った。

店の内装は、(行ったことはないけれど)日本でいうキャバクラ。BGMにはクラブミュージックが大音量で流れている。大きなソファーに3人で座ると、1人の若い女性がやってきて、私の左側に腰掛けた。黒いスーツを着た巨漢のボーイがいろんな果物が乗った大皿とワインクーラーのような銀食器をテーブルの上へ置いた。なんだかとても高級そうな店だ。

ただしその雰囲気が徹底されていない。流れるダンスミュージックは曲の繋ぎ方がまずくて、四つうちのキックの音がこんがらがっている。隣の女性の服装はグレーのジップアップパーカー。前を少しはだけて、片手でふわふわの扇子(幼少期にテレビでみた、ジュリアナ東京とか、『ごっつええ感じ』の「ボディコン母ちゃんコンテスト」とかの、あの扇子)を仰いでいる。テーブルに乗せられた氷の詰まったクーラーには、酒のボトルと一緒に、普通のミネラルウォーターのペットボトルがぶっ刺してある。そして、こうしたちぐはぐさのひとつひとつが、店全体がひとつの罠であることのサインであるように思えてぞっとした。魚が目の前の餌からテグスが伸びているのに気づくときとか、旅人が光に引き寄せられて入った山中の荒屋で若い娘のお尻からキツネの尻尾が出ているのを見てしまったときとかも、こういう鋭い恐怖を感じるのだろうと思う。

自称学生らは、私が肩からたすき掛けにしているポーチをソファーに置くようしきりに勧めてきた。また、彼らは私の免許証やパスポートに強い関心があるようで、何度も見せろと言ってきた。とても親しげなのだが、目は笑っていない。

「ジュリ扇」と呼ばれているらしい。トルコでは(でも?)こういう扇子はセクシーさの記号として機能しているのだろうか。

ダンスを踊り、戦略を立てる

しばらくすると、自称学生のひとりが目の前の酒を勧めてきた。トルコの伝統的な酒なのだと言う。彼がするように、酒をペットボトルの水で割り、グラスに口をつけて、アッと思った。アニス酒だ。エクス人の友達と公園で飲んだパスティスと同じ香り。水を入れると白濁するのも同じだ。このとき私は初めて、アニスの香りをつけた酒を飲むというのが、南仏だけでなく、地中海沿岸地域に広範囲にわたって存在する風習なのだと知った。学びの機会というのは、どこにでもあるものらしい。

アマゾンで調べてみたら、ラク(トルコのアニス酒)が売られていた。ほんとうに、家にいながらにして何でも手に入る時代になった。

店のBGMはいつのまにかスローでメローな曲に変わっていた。自称学生たちの提案で、隣にいるジップアップパーカーの女性とダンスを踊ることになった。彼らはあいかわらずカバンを置いて行くように勧めてきたが、これオシャレでやってんだよ、とかなんとか言って席を立った。

店の真ん中のお立ち台みたいなところで、ジップアップパーカーの女性に両手を握られ、体を寄せ合う。何をすればいいのかわからず、ゆっくりひかえめに、ゆーらゆーら、ゆーらゆーらと体を動かした。いったい私は何をやっているんだろう。親に合わせる顔がない。

とはいえ、まずは生還しなければならない。私は、ゆーらゆーらやりながら、店からできるだけ早くに抜け出すために、二重の戦略を立てた。その戦略とは、こうである。

  • 1  とにかく楽しそうに振る舞って、こちらが帰りたがっていることに気づかれないようにする。
  • 2  味方をひとり作って、その人に帰らせてもらう。

間抜けなアイデアである。ところで、2については、席には自称学生二人と、今一緒にゆーらゆーらやっている女の人の三人しかない以上、そして、私をここに連れてきた自称学生二人が私に協力してくれるなんてありえない以上、目標は自ずと絞られる。そこで、戦略2は、具体的には、次の手順で進めることにした。

  • 2-1  巧みな話術で、ジップアップパーカーの女性の心を掴み、彼女の同情を引き出すための条件を整える
  • 2-2  彼女の同情を引きつつ、帰らせて欲しいとお願いする

後編へ続く)

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