フィールドワーク四方山話, ミャンマー

民主化運動のアンセム

2月6日の記事ではクーデター発生直後のミャンマーの様子について、ヤンゴンに住む私のミャンマー人の友人らの反応を紹介した。あれから2週間が経つ。毎日Facebookでミャンマー情勢をチェックしているが、悪夢のようなニュースばかりで正直気が滅入っている。

若者たちを中心に展開される抗議運動や公務員らによる職務のボイコットである「市民的不服従運動(Civil Disobedience Movement)」に対して、軍事政権側はより一層その封じ込めを強化している。2月9日には集会禁止令を出し1、また12日には、2万3千人以上の囚人を釈放した2。囚人の内訳は不明だが、軍としては、荒くれ者を意図的に街中に解き放ち、混乱を起こさせ、平定のために軍が登場しなければならないというシナリオを描きたいのだろう、というのがミャンマー人のあいだのもっぱらの見方である。実際に12日以降、夜間の放火や誘拐などが増えており、これらは軍が釈放した囚人や軍が雇ったホームレスの子供による蛮行であるようだ。前回も登場してもらったアウンさんも「市民暴動を起こさせようとしているのは確か。社会の安寧を乱すパターンで88年もいまもまったく変わらない」とのことで、相手の出方はすべてお見通しといったところだ。しかし打つ手がないのもかつてと同じである。軍の手先である警察はあてにならず、人々はこうした恐怖から身を守るために自警団を組織し、不審者の取り締まりにあたっている。

昨日19日には、軍の発砲により脳死状態だった20歳の女性(入院中に誕生日を迎えた)がとうとう亡くなってしまった3。初の死者である。去年の総選挙が彼女にとって生まれてはじめての投票だった。その彼女が1票を投じたNLDは、突然軍に政権を奪われた。

ニュースの詳細やクーデターの分析についてはすでにいろいろとあるのでそちらを参考にしてもらうのがよいだろう。ここではそれらには立ち入らずに、今回は民主化運動のアンセムと、そこに登場するコードーフマインという人物を紹介したい。

民主化のアンセム

起きながらにして悪夢を見続けているミャンマーだが、民主化の希望は捨てていない。彼らはそれを歌に託す。いくつかの歌がデモ隊に歌われていたり、演奏されていたりするが、ここでは民主化のアンセムとして知られる「Kabar Makyay Bu」(世界が砕けるまで)という曲を紹介したい。元々1988年の通称「8888(シッレーロン)」と呼ばれる民主化運動(社会主義路線の独裁軍事政権に対する民主化運動)のときに作られた曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=Dsrm2DpoJwo
「世界が砕けるまで」
1番
世界が砕けるまで
我らの血で書かれた歴史
革命だ
民主化を勝ち取る闘いで死んだ同士よ
ああ、英雄たちよ
志士たちの国
(1番くりかえし)
燃えたぎる国民

2番
コードーフマイン
歴史で大活躍されたおじいさま
タキン・アウンサン
道半ばで血に染まったお父さま
ああ、なんてむごたらしい
100フィートにもおよぶ死体の数々
(2番くりかえし)
民主化は崩れ落ちた

3番
兄弟たちよ
100フィートにおよぶ路上に流れた血はまだ乾かない
もう迷うな
民主化を勝ち取る闘いで死んだ同士よ
ああ、勇者たちよ
いまこそ革命だ
(3番くりかえし)
世界が砕けるまで
「世界が砕けるまで」を歌う人々(最初の場面)

動画にあるようにみなが集まって歌ったり、またクーデター発生から現在まで夜8時になるとみな鍋を叩いて騒音抗議を続けているが、このときにこの曲を流したりしている。なお夜8時というのは国軍のニュースの時間で、それに合わせてみな鍋叩きをしている(つまり誰もニュースを見ていない)。そのほかYoutube上にはこの歌のカバーが抗議運動の一環として複数投稿されている。若者たちがギター片手にカバーしているものや、ミャンマーの俳優たちが集まってNLDのテーマカラーの赤い服を身にまとって歌っている動画などなど。

ちなみにメロディー自体は元ネタがある。Kansas(1973年結成)というアメリカのプログレッシブ・ロックバンドの「Dust in the Wind」(1978)という曲である。これに音楽家のナイン・ミャンマーがビルマ語の歌詞をつけた。8888の民主化運動の拡大にさいしてアンセムがあったほうがよいということになったが、作曲する時間がなかったので、おそらくすでに当時のミャンマーでよく知られていたという理由で?この曲を借用したようだ4。なお軍政時代も海賊版として外国の音楽はたくさんミャンマーに入っており、人々が洋楽や日本のポップスに触れる機会はけっこうあった。彼らはそれらにミャンマー語をあてて、多くのミャンマー語バージョンを作っている。

時代を感じさせる秀逸なMV

詩人コードーフマイン

歌詞にはミャンマー国家の建設を語るうえで欠かせない人物が二人登場している。コードーフマイン(1876~1964)とタキン・アウンサン(1915~1947)である。タキン・アウンサンは日本人でも知っている人は多いだろう。ビルマ独立の父としてあがめられているアウンサン将軍で、2月1日に拘束されたアウンサンスーチー国家顧問の父である。アウンサンスーチーの絶大な人気は、彼女がアウンサン将軍の娘であることが大きい。アウンサン将軍は独立に向けてイギリスと粘り強く交渉し、また独立にさいし少数民族の権利保障に奔走した。しかし1947年、暗殺される。32歳だった。アウンサンスーチーが2歳のときのことである。

ちなみにタキンとはビルマ語で主人を意味する。この言葉は英領時代の1930年に結成された反英組織である「ドーバマーアシーアヨン(我らビルマ人協会/タキン党)」と深く結びついている。この組織のメンバーは、自分たちの仕えるべき主人はイギリス人ではなくビルマ人である、という意味を込めて、みな自分の名前の前に「タキン」をつけた。

もう一人のコードーフマインについては、知らない人が多いのではないだろうか。かく言う私もこの人物のことをほとんど知らなかった。こちらもやはりタキン党のメンバーで「タキン・コードーフマイン」という名前で知られる。歌詞にもあるように、アウンサンが「独立の父」ならコードーフマインは「ナショナリズムの祖父」だろう。彼はアウンサン将軍に比べると国外での知名度はいまひとつかもしれないが、詩人、文筆家、活動家という肩書きを持ち、ミャンマー人には広く知られている。

彼はビルマが英領になる前の1876年に下ビルマのバゴーで生まれている。イギリスに完全に占領(1986年)される過程を経験している彼が、ナショナリズム的志向を持つのは自然の流れかもしれない。彼は1894年にヤンゴンに出てくると、劇作家として活動を始めた。ビルマの歴史や神話をベースにした演劇はたいそう人気となったそうだ。

劇作家としてもビルマ的なるものを大事にしたいという傾向が見て取れるように、彼はその後ジャーナリズムに転向し、マウンルンなどのペンネームで雑誌に反英的、民族主義的な社会派記事を書くようになる。彼の記事は当時の人々のナショナリズム意識を大いに醸成したと考えられる。その後1934年にタキン党に加わる。このときコードーフマインは58歳、アウンサンは19歳である。ほかのメンバーよりもかなり年長でおそらくメンター的な存在だったのだろう。またタキン党は1930年の結成以来、党憲章などを作ることなく、民族主義的な啓蒙運動が主たる活動だったようだが、コードーフマインの入党によりさらに党としての権威を高めることに成功し、基盤を固めることになったとされる5。タキン党第一回党大会が1935年になって開かれていることからもそのことがわかる。

タキン・コードーフマインは独立以降も冷戦下での世界平和を訴えて、国際会議等に出席したようだ。詳しいことは分からない部分も多く、また冷戦下のビルマの身の振り方となるとまた別のテーマになるので、ここではあまり立ち入らないが、たとえば1952年には北京で開かれたアジア太平洋地域平和会議に出席し、委員長に選出されたとか、54年にスターリン平和賞を受賞したとされる6。これらの功績がどの程度ミャンマー人に知られ、また評価されているのかはよくわからない。これは私の勝手な推測だが、戦後のこうした動きよりも、おそらく、タキン党という反英組織において重要な役割を担ったという点で、タキン・コードーフマインはミャンマー人々の心に強い印象を与えているのではないだろうか。

タキン・アウンサンとタキン・コードーフマイン。二人の国民的英雄が生きていたら、現在のミャンマーの姿をどのように見るだろうか。

  1. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210209/k10012857101000.html
  2. https://www.afpbb.com/articles/-/3331386
  3. https://www.bbc.com/japanese/56122713
  4. 「Kabar Makyay Bu」という民主化運動のアンセムについては以下の記事を参考にした“Interview with the creator of Kabar Ma Kyay Bu”, The Myanmar Times, 2021 Feb 11.
  5. 根本敬 (1984) 「タキン党の初期形成過程とその思想的特質:1930~1935年」東南アジア史学会発表要旨。
  6. タキン・コードーフマインについては主に以下の記事を参考にした。“Local memorial for national hero”, The Myanmar Times, 2015 Feb 16.

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