学校の先生への贈り物
帰国日が近づいてきたある日のこと。お世話になっていた家のお姉さんが、「ちょっとあんたに何かお土産をあげないとね」と言って、家の押し入れから女性用の靴やカバン、さらにスカートや生地を次から次へとポイポイ取り出しはじめた。出るわ出るわで、瞬く間に目の前には色とりどりの靴、カバン、スカートの山ができあがった。ビニール袋に入ったままのものが多く、見るからに未使用である。どれも安くはなさそうだ。
「全部生徒の親からだよ!これはほんの一部。奥にもまだまだあるよ」
このお姉さん、公立学校で教員をしている公務員である。彼女の話では女性の教員はみんなこんな感じで、生徒の保護者から大量の貢ぎ物をもらっているのだそう。日本の公務員なら考えられない話だが(もちろんアメちゃん1個とかならもらうかもしれないが)、ミャンマーでは学校の先生に保護者がけっこうな額の贈り物をすることはごくごく一般的な習慣だという。女性教員なら、カバンや靴などの服飾雑貨、それから地方の民族の珍しいロンヂー(巻きスカート)などをよく贈る。高いものはおそらく数万チャットはしており、日本の感覚で言うと、数万円を品物(ブランドバッグとか?)を保護者が先生に個人的にプレゼントするということになる。たとえば日本の教育現場で保護者から個人的にコー〇のバッグを贈られても、まず受け取ることはないだろう。逆に何か裏があるのでは?と勘ぐるのではないだろうか。
彼女はキャリアも長く、多くの保護者からもう何十年もいろいろなものをもらい続けており、家の押し入れはそれらでパンパンになっている。「こんなにあっても使いきれないよ」と言いながらも、「このカバンは型がちょっと古いから、今持つのはダサい」「これはなんにでも合わせやすそうだからとりあえずキープ」などと、一応一つ一つ自分が使えそうなものと人にあげてもよいものを吟味していたのが、オシャレにうるさい彼女らしく、印象に残っている。
先生とお坊さんの違い
同じように物品を贈るということで思い出されるのが、お坊さんに対する寄進である。ミャンマーは国民の9割近くが上座仏教を信仰しており、お坊さんの存在は身近である。在家の仏教徒はことあるごとにお坊さんに対して様々なものを寄進する。現金、生活必需品、食事などなど。こうした寄進は「アフルー」と呼ばれ、徳の高い存在であるお坊さんにアフルーを行うことで在家仏教徒は徳を積むことができるとされている。このアフルーと「先生」に贈り物をするという行為は、形式だけ見ると似ていなくもない。
実際、ミャンマーにおける「先生」の存在は、日本人の感覚よりも遥かに特別なものとしてイメージされている。なにせ、敬うべき対象としてまずもって重要なのが仏法僧の「三宝」で、その次に続くのが親と先生で、「五宝」と言われるぐらいである。
では先生に対する贈り物もお坊さんに対しての贈り物と同じなのかと言うと、それはまったく違うだろう。やはりお坊さんが出家で先生が在家という部分で両者にはかなり大きな断絶がある。言い換えると、お坊さんは世俗的にはなんの権力も持っておらず、一方先生は権力を持っているということである。
人々がお坊さんに何かを寄進するのは、あくまでも自分が徳を積むことが目的で、何らかの便宜を図ってもらうというような実際的な利益を引き出すことを目的としているわけではない。お坊さんは理念上は世俗的に何の権力も持っていないからだ。一方、先生に対する贈り物となると、どうしても先生から何か利益(「うちの子をよろしくお願いします」)を引き出そうという魂胆が見える。先生は世俗の人間で、世俗の人間同士、権力を行使しうる存在である。
お坊さんが在家信者からの寄進を受け取ることに対してはとくに何も思わないが、保護者が学校の先生に高価な贈り物をしたり、また学校の先生も当然のようにそれを受け取ったりすることに抵抗を覚えるのは、こういった目に見えない世俗の権力のやり取りがバチバチに展開されているにもかかわらず、表面的にはお坊さんへの寄進のよく似ているからではないだろうか1。
「おやつ代」
権力者から利益を引き出すために贈り物をするということは、言ってみれば「袖の下」とか「賄賂」である。実はミャンマーは賄賂が公然と行われている。先生にはカバンや布などのモノだったが、それ以外の場面の賄賂は基本的にはミャンマー語で「モンポー(おやつ代)」と呼ばれる現金であることが多い。
ミャンマーに来て日が浅いころ、次のような出来事があった。外国人登録証を発行してもらうために役所に手続きに行ったさいに、所定の手数料だけを窓口で渡したら、窓口担当者が不思議そうな顔をしてずっと私のほうを見つめてくるのだ。しかしこちらはなんのことかわからない。何か不備があるなら言ってもらわなければわからない。
そうこうしているとその担当者、言葉にはしないが、あからさまに手をちょいと動かしてきた。「わかるよな?」という顔をしている。聞いてはいたけれど、こんなにあからさまに求めてくるものなのかとため息をついたことを覚えている。なんで所定の手数料以外のお金を払わなければならないのかと憤慨して、おそらく「おやつ代」の相場よりも少ない数百チャット(日本の感覚だと数十円)しか渡さなかったような気がする。外国人なのでそういう習慣がないからよくわからないという体を装った。「コイツ、馬鹿にしてんのか!?」というような顔をされたけど、とぼけたフリをして押し通した。
あとで友人にその話をすると、そういうときは普通は2千とか3千チャット(200円~300円)渡すもんだ、お前はケチすぎる、と呆れられた。それを渡すだけですぐに処理してくれるんだから、と。たしかに数千チャットをケチって何時間も待たされることを思えば、「おやつ代」で時間を買う、ということは理に適っているだろう。しかし「特急料金」などと明記されていれば払うかもしれないが、そういうわけでもないし、結局は曖昧な領域として残っている。
こうした「おやつ代」はミャンマーでは暗黙のルールとなっており、多くの人が日常的に「おやつ代」を払ったり、もらったりして、便宜のやり取りが行われていた。「おやつ代」の受け渡しも実にさりげなく(まるでドラッグの受け渡しみたいな)、もはや誰も疑わないルールとは言え、おおっぴらに手渡しをすることはマナー違反というか、カッコ悪いとされているようだった。以前に書いた小銭獲得のための攻防もなかなか慣れなかったが、「おやつ代」の感覚もやはりなかなか最後まで身につかなかった。
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