フィールドワーク四方山話, ミャンマー

2桁にハマる専業主婦

少し前にミャンマーで公然と行われている違法くじ「2桁(フナロン)」とその数字を瞑想によるひらめきから当てる「2桁当てオヤジ」の存在について記事を書いた。この違法くじ、ミャンマー中で人気だが、もっとも熱心なのは意外にも中年の専業主婦たちかもしれない。日本だとギャンブル依存症というとどうしても男性のイメージが強いが、ミャンマーではとくに、時間とお金を持て余している、富裕層の専業主婦が多いような印象である。たいていの場合、夫や息子たちが稼ぎの良い貨物船の船員をしているとかで長期間家を留守にしていることが多い。監視の目が届かないなかで、賭博にどんどんのめり込むのだ。つまり、妻や母親が賭博に手を出していないかを、夫や息子が心配するという、日本とは逆の、ちょっと不思議な構図になっている。

友人の義理の母親(妻の母)もその一人で、気づいたときには100万円以上の借金を抱えてしまっていたという。ほかにも夫が海外に出稼ぎに行っており、その仕送りをほとんど2桁や3桁に費やしてしまっていた女性もいる。しかも夫にはその仕送りで豪華な家や車を購入した(つまり、お金をちゃんとやりくりしているから、あなたは安心して働いてね)と偽って、他人の豪邸や車の写真を送っていたのだそうだ。何も知らない夫は帰国して愕然としたという。2桁くじは公然に行われているとはいえ、違法賭博であることに変わりはなく、何の前触れもなく警察の手入れが入ることもある。近所の普通の中年女性も、ある日を境に姿を見なくなったと思ったら、実は2桁で逮捕されていたと聞いて驚いたことがある。「2桁当てオヤジ」はそのあたりうまくやっていたのだろうか。あるいは賄賂でなんとかなるものなのだろうか。

「算数ノート」

私のミャンマーの母であるドーキンティン(当時50代)は、この賭博にどっぷりはまってしまった専業主婦の一人だ。彼女もやはり、それなりに裕福な女性である。夫は若い頃はずっと貨物船の船員をしていたし、息子2人も父親と同じ会社で同じように船員をして、一年のほとんどを海上で過ごす生活をしている。以前は夫が、そして現在は息子2人が、定期的にけっこうな額の外貨を送金してくれる。ヤンゴン東部のドーボン地区に経つ一軒家は二階建ての立派なもので、ダウンタウンや繁華街からはやや離れているものの、その分静かで、立派な家が並ぶ閑静な住宅街である。

彼女は「アタリそうな数字」を独自の理論によって導き出そうと、ノート片手によく計算していた(ちなみに彼女は瞑想はしていなかった。瞑想に興味があったが、どうやればよいのかよくわからず、手が出せないままになっていた)。独自の理論というのは詳しくはわからなかったが、その日がビルマ暦で何日かとか、なんとなく目にした車のナンバーなんかも「ラッキーナンバーに違いない」みたいなノリでどんどん取り入れて計算していたような気がする。その様子があまりに熱心なので、呆れた息子がノートの表紙に「ドーキンティン 最終学年 算数ノート」と書くほどだった(写真がないのが悔やまれる)。それぐらいノートにかじりついていた。ドーキンティンの元には、近所に住む義姉(夫の姉)がときどきやって来てはやはり二人で「2桁」の相談をしていた。近所でいつも世話になっている胴元の青年を呼びつけては、何通りもの組み合わせを購入する、というのがお決まりであった。

ドーキンティンはこの「算数ノート」をどこに行くにも肌身離さず携帯していた。彼女と一緒に上ビルマのパカンヂーというところまで精霊コーヂーヂョーの儀礼ための遠征したときも、彼女はノートを携帯し、ときどきそれを開いては「アタリそうな数字」を探り当てようと計算していた。「2桁」はミャンマー中で広く浸透しており、旅先だろうがどこであろうが、ひとたび「2桁」を買いたいと言えば、どこからともなく胴元がやってくるのだ。

こんな辺鄙なところであっても「2桁」の胴元はどこからともなく現れる。
一番後ろがドーキンティン。カバンには「算数ノート」が入っている。

パカンヂーへの旅にはドーキンティンのほかに60代ぐらいの女性二人も同行していたが、彼女たちは2桁には一切関心を見せていなかった。むしろ二人は、旅先にまで「算数ノート」を持ってきて暇さえあれば計算ばかりしているドーキンティンに対して、よくもそこまでのめりこめるもんだ、と呆れ気味だった。

彼女たちがなぜ2桁に関心がなかったかと言うと、きっと商売人だったからだろう。二人とも結婚して子供もいる人たちで、ヤンゴンの市場で自分の店を構えている「商売人(ゼーデー)」だった。商売人というのはミャンマーだと、それだけで「ちゃっかりしている」「お金に厳しい」はたまた「ケチ」というイメージが付きまとう人たちである。市場の商品には決まった値札がなく、毎日のように二人は客と真剣な交渉を繰り返しており、損になりそうだったらさっと手を引くのだ。そんなしっかり者のゼーデーは2桁などのリスキーなものには手を出さない。

もう一つ、彼女たちには「自分も稼いでいる」という自負があるという点も付け加えたい。一方のドーキンティンは専業主婦で、商売人の女性と自分とを比較して、自分も稼がねば、と思ったということは考えられる。専業主婦が違法くじに手を染めるのは、単に大金と時間を持て余しているからというだけでなく、専業主婦であることからくるうしろめたさみたいなものがあるのではないだろうか。本人がそのように言ったわけではないけども。

ミャンマーの典型的な市場(ゼー)。女性の店主も多い。

お金への執着

ドーキンティンは根気強く2桁を続けたからだろうか。あるとき大儲けして、それで家まで新築に建て替えてしまったのだから、なんというか、あっぱれと言うべきか、開いた口がふさがらないと言うべきか。とにかく今のところ財産を手放さなければならない大損はしていないようで、なによりというほかない。

しかし欲望からの解放を目指す仏教徒にしては、お金への執着のすごさに驚く。ミャンマーの映画なんかでは強欲すぎて身を滅ぼす人の話だったり、貧乏人が一攫千金を夢見るが叶わない話だったりがけっこうあって、お金に振り回されることの悲哀がよくテーマになっている。映像メディアでも様々なかたちで強欲であることに対する戒めが繰り返されるのは、それだけ現実世界に強欲な人が多く、それが原因で事件に発展することが多いということの現れだろう。

ドーキンティンは夫や息子たちの稼ぎで何不自由なく暮らせており、老後の心配もいらないだろうと思うけれど、それでも2桁をやめられない(本人も負けがこむとやめないといけないことはわかっている、というようなことを言っている。賭博にハマる人の典型的な口癖である。)のは、不思議である。やはりお金があるということは、それだけ大きな施しができること(つまり大きな功徳を得られる。最大の施しはパゴダ建立である)を意味しているということであろう。ただし、実際に他者に対して使っているかどうかについては、周囲の人々が眼を光らせるであろう。独り占めしてしまっていては、「ケチ」のレッテルを貼られ、これはミャンマー社会ではとんだ不名誉である。なので、お金をどのように手に入れるかよりも(もちろん明らかな詐欺とかなら別だが)、入ったお金をどのように使うのか、のほうに人々の関心がある、ということなのかもしれない。

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